『駆け足で読む近現代史』

第一部

「歴史に学ぼう」「その歴史は勝者が創る」

(その歴史は勝者の手によって、勝者の都合よく書かれるのだ、と言う事を御理解の上で、近・現代史は御購読願がいます)。

始めに、(私に履歴書)

★幼年時代を除き、もの心が付いて以来の私(豊永高明)は、『健康自慢の快眠、快食、快便、薬嫌いの医者要らずの、病知らずで、』、過ごしてきた。

長じても、病で会社を休んだ記憶はない。

★そんな健康自慢の私も、古希(70歳)の誕生日を迎える三日前の昼休み、会社のトイレの前で、体中の力がスーッと抜けて倒れ込んだ。

★「どうしたんだろう?」と、何かに掴まり、立あがろう、とするが、腕にも足にも力が入らないので、立つ事はできない。不思議と悩む私を、従業員が見つけ、救急車を呼んで、救急急病院に運び込まれた。

★意識のないままに、救急車で運び込まれた場所は、何故か、大きな川が流れている。

私はその川岸に立っている。目の前に渡し船が待っている。

どうも、話に聞く『三途の川』では、ないかの気がする。

何気なく船に乗ると、船は私を乗せ、船は対岸に向け漕ぎだし、対岸に着いた。

★船頭サンが、船賃の六文を請求した。

乗った時は傘で見えなかったが、良く見ると鬼の船頭サンである。ポケットを探って見たが、救急車できたので財布を持っていない。

「何だ!無賃乗船か?!」、と同僚の鬼の船頭サンと相談し、「お前は、ひとに対して良い事はしていないが、ひとの物を盗んだり、人を泣かすような悪い事もしていない。

これから、「閻魔大王の裁判で、地獄に落とすか、極楽浄土に送るか」、が決まる。

「無賃乗船は、閻魔の心証を害するので、お前を元の岸に戻してやるから、六文を、持って出直せ、」と、言われて戻った所は、病院のベッドの上だった。

★二度目は、脳梗塞は収まり、種々の検査で腎不全と診断され、入退院を繰り返していた。入院中は、不味い病院食、決まった薬の服用をしていると、血液検査の数値は良くなる。

退院して普通の生活に戻ると、また悪化する。こんな生活を二~三度繰り返す。

数値が良くなっても、緊張感は持続しない。読書、書き物は30分で疲れてしまい、何事も続かない。

★古希も済んでから暫くは建つ。

もう充分に生きた、仕事もひと一倍にやって満足だ。

私の好物は鰻重である。

主治医に、こんな事を繰り返して生きても、仕方がない。「この世の名残に、極上の鰻重を腹一杯食って、あの世とやらに旅だとうと思うんですが」、

「でも、治らぬ病で末期に苦しむのは嫌だ。モルヒネでも麻薬でも打って楽に死なして頂きたい。とお願いした。

★医師は「慌てなさんな、あなたの臓器の腎臓以外は健全です。腎臓の治療方法はないが、

『人口透析』という方法がある。

体内の血液を抜き、腎臓機能を持った機械で洗浄して、体内に戻す、等の説明をして頂き、実際に透析をしている現場も見学をした。

最早普通の生活には戻れないが、一週間に三度の透析をすれば、平均寿命は大丈夫らしい。

★三度目は、84歳の春、原因不明の血圧の降下(上が60、下が40で、救急車で病院に運ばれた。

緊急入院して、色々と検査して結果、異常は見つかりません。どうぞ、ご退院ください。で、ある。

~85歳の春を迎える、今、リハビリに励む今日此の頃である~

★さて、医師も坊主も寿命は判らない。何事も統計の世の中である。

「ま~、平均余命までは、生きる、と思っても、厚かましい奴と閻魔が怒る事もなかろう、」と、考えた。保険会社等の統計を見ると、84歳の私の余命は、数年だが10年に限りなく近い。

稼げなくなった私に、政府が年金をくれるから、と、毎日が日曜日でテレビを見て過ごすのは『おテントウ様』に申し訳ない。

★脳梗塞も収まり、療養生活の徒然に、右手は不自由でペンは持てない。

左手だけでパソコンを打つ事を覚え、文章を書く面白さ知った。 

私の人生は働き詰めで長期休暇等、採った事はない。天の与えてくれた長期休暇だ、大事に使う、と書きに書いた。

★自分の経験、見解を文章に表すだけで、三冊を出版した。書き溜めた原稿も可なりある。

三度目の命拾いだが、恐らく四度目は無理である。

★余命を有効的に使おう、と、同志を集め『マホロバ会』を設立、出版事業を行って、些かでも税金を納めよう、と決心した。

~駆け足で書く日本中心の近現代史~

★第一章 歴史に学ぶ

古語に曰く、「凡人は自分の体験に学ぶ。賢人は歴史に学ぶ。聖人は歴史で悟る」。

「その歴史は勝者が創る」。

★歴史に「ifu 」(もし)はない、と言われているが、「もし、この時にこうしていれば?」と、考える事は、『未来の予測にとって非常に大事な事だ、と思う。

この話の中に「史実は決まっているが、でも、こうすれば後日の世界史もこうなったであろう、」という事がしばしば出てくるので、随時にその手法を採用しているので、良く考えてお読みください。

★私の尊敬する、『筑波大学の名誉教授の渡部昇一先生が建てた仮設に、『もし、豊臣秀吉が、ボケないで家康より長生きをし、『秀頼』が産まれなかったら、養子の秀次が秀吉の跡取りとなっていれば、秀次もそれなりのなりの学問も才覚もあり、それなりの政治を行って繁栄もする。

その内に家康も死ぬであろう。

徳川幕府も出きいないから、鎖国もなく、世界史も替わったであろう。

★仮説を立てて見よう

一般的に豊臣秀吉の、頭が冴え出世街道をひた走りに走ったのは、信長に使えた、『猿』と呼ばれた足軽の木下藤吉郎から、功績を認められ武将に抜擢され、羽柴秀吉となった時代である

★また、織田信長が、一介の浪人から才覚を発見し、大名に取り立て、信頼の厚かった明智光秀が謀反起こす等は,誰ひとり思っても見なかったであろう。

その明智光秀が謀反を起こし、本能寺に早暁に奇襲して、本能寺で討死する等を予測した者など誰が想像したか?

★当時、西の毛利攻めの総大将であった秀吉の、陣地に紛れ込んだ家来が身に隠した遺臣が、『信長公は、6月21日の未明本能寺で死す』の悲報を伝えた。

悲報は櫛の羽を牽くように届き、真実と知った秀吉は、急遽、備中高松城の主将・清水宗治の切腹と引きか、水攻め中に高松城の囲みを解き、毛利と和議を結び、とって返したのが、所謂、中国からの、『大返し、』である。

天下分け目の『山崎の合戦』

★根拠地の姫路城の無事、逃げ込み、毛利の追撃のないのを見極め、『これより、主君・織田信長の弔い合戦に出陣する』。と、宣言する。

全軍を集め、城内にあった金子を、兵士に配って与え、城内に入る庶民、住民には城内にある米を集め、全てを配り終った。

★「弔い合戦に負け、逃げ帰っても、城内にひと粒米も一文の金のない。

光秀討伐の敗れても逃げ帰る城には一粒の米、一文の銭もない。

「主君の弔い合に戦勝利して、都で美酒を飲もう!」。と気勢を上げ山崎に向った。

そして、京都、大阪に境に、宇治川、鴨川、木津川の、三つの川が合流して、淀川となる、所、山崎で、羽柴、明智の両軍が激突、一日の合戦で明智勢を破った。

逃げる光秀を来栖野の藪の小道で討ち取り、見事に信長の仇を打ち、信長の後継者の名乗りを上げた。

★続いて、信長の後継者を決める『清州会議』で、織田家の遺領の分配で、自分(秀吉)の長浜城を勝家に養子に譲って勝家を安心させ、柴田勝家を雪深い北ノ庄に戻らした。

これに成功して、その間に近畿一円を制圧、織田信孝の居城・長浜城を包囲、攻略の体制を造った。

雪に埋もれた北の庄からの援軍の期待はできず、あっさり降伏、血を濡らさず長浜城を取り返した。

★柴田勝家が怒っても、雪に埋もれて動きは付かない。

雪溶けをまって、賤ヶ岳にでた時に、織田信勝の籠った岐阜城の包囲を解き、賤ヶ岳にとって返す、電撃作戦であった。

賤ヶ岳合戦では、勝家側の戦略上の齟齬もあって一日の合戦で勝利し、柴田勝家を北ノ庄の城の追い詰め、総攻撃の実行される直前に、城に火を懸け、燃える天守で、信長妹で絶世の美人と言われた、勝家に嫁いだ、『お市の方』共々切腹して自害死した。

★絶世の美人の娘、三人は救い出した。

★信長の後継者は羽柴秀吉である事を天下に知らしめた。

この当たりが最盛期で、大阪城築城後の、関東の北条征伐、九州の島津征伐は、大軍を率い、側室を伴った物見遊山で、権力に誇示をしたに過ぎない。

以後、後世の歴史家によれば関白となっても、それらしい業績も残せず、淀君の愛に溺れ、淀君の産んだ秀頼を溺愛した『ボケ老人』に過ぎなかった、と言われている。

★だが、ここで私は、もうひとつの秀吉の功績を見つけたので紹介する事から、物語を始める事にしたい。

第一章 日本人の特性は?

日本人は猿真似文化で、独創性がない、と言われるが!?

~鉄砲伝来~

鉄砲伝来とは、16世紀にヨーロッパから東アジアへ火縄銃(鉄砲、鐵炮)が伝わった事は、狭義には日本の種子島に伝来した事件を指す。

だが、現物の火縄銃のほか、製造技術や射撃法なども伝わっている。

年代については、1542年説、1543年説やそれ以前とするなど、諸説ある。

★種子島は、戦国時代から安土桃山時代にかけての大名であり、種子島氏第14代当主、時堯( トキタカ)日本に最初に銃を導入し、国産化に導いた偉大な人物である。

★『鉄炮記』によれば、天文12年8月25日(1543年9月23日)、大隅国の種子島、西村に一艘の船が漂着した。

100人余りの乗客の誰とも言葉が通じなかったが、西村時貫(織部丞)はこの船に乗っていた明の儒者・五峯と筆談してある程度の事情がわかった。

この船を領主種子島時堯の居城がある赤尾木まで曳航する。

★船は8月27日(9月25日)に赤尾木に入港した。

時堯(トキタカ)が改めて法華宗の僧・住乗院に命じて五峯と筆談を行わせたところ、この船に商人の代表者は2人いて、それぞれ牟良叔舎(フランシスコ)、喜利志多佗孟太(キリシタ・ダ・モッタ)という名だった。

★時堯(トキタカ)は2人が実演した火縄銃に興味を引き、対して裕福でもない種子島家が、大枚二千両で2丁を、買い求め、家臣の篠川小四郎に火薬の調合を学ばせた。

時堯が射撃の技術に習熟したころ、紀伊国根来寺の杉坊某もこの銃を求めたので、津田監物に1丁持たせて送り出した。

戦国時代に、この鉄砲をいち早く実用化して、傭兵集団として近隣にその名を轟かせた勇猛な鉄砲軍集団の雑賀衆である。

★さらに残った1丁を複製するべく金兵衛尉清定ら刀鍛冶を集め、新たに数十丁を作った。また、堺からは橘屋又三郎が銃の技術を得るために種子島へとやってきて、1~2年で殆どを学び取った。

ひと口でいうと簡単のできたようだが、当時の日本にはネジを造る知識も技術は無かった。

火薬の爆発が銃の後ろ出内ように止める部分がボルト(ネジ)であった。

このボルト(ネジ)が判らず、幾日も考えた理解できなくて、スペイン人に教えを請うた。

値打ちを付け、中々教えてくれない。

どうしても、と頼み込むと、橘屋又三郎には絶世の美人の娘がいた。

それを、嫁に呉れたら教えてやる、と言われたのを娘が聞いていた。

★娘は親の苦労を目の当たりにして、何とか親の希望を叶えてあげたくて、スペイン人に抱かれたという話を何かで読んだ記憶がある。

こんな苦労もあって、世は戦国時代で新兵器を探す大名に瞬時に聞こえ、瞬く間に全国に広がった。

~鉄砲の威力~

★1575年、織田信長が、武田勝頼率いる、当時は日本最強と言われた騎馬軍団15000名の包囲する長篠城攻城戦の救援に駆け付けた。

そして、設楽ヶ原に陣を牽き、馬防柵を設置し、武田の騎馬集団の攻撃を待った。

攻撃が始まる。

馬防柵を壊さんとする武田勢騎馬隊に、3000挺の鉄砲を釣瓶打ちし、侵攻する武田勢に猛射を浴びせ、騎馬隊を撃ち落とし、壊滅に追い込んだ。

★これが種子島に鉄砲が伝わったのが、10丁が複製され、全国に広まった一部であった。

それが、がたったの32年で全国に普及し、信長の設楽が原の一斉射撃である事は驚きの一語に尽きる。

★余談であるが、種子島に近い薩摩藩にはいち早く鉄砲は伝わり、鉄砲の製造技術、用兵上の特典は、早くから研究された。

兵士が戦場で腰を据え、座禅の姿勢で釣瓶撃ち捲る事は、『薩摩の座禅撃ち』と呼ばれて敵に恐怖を与えた。

鉄砲を釣瓶撃ちにし、敵の機先を制し、槍組みが、穂先を揃えて、突っ込むのは

薩摩のお家芸で、信長が見習った、と言う説もある。

この、座禅撃ちを恐れた家康が、関ケ原の負け組で、南の果ての薩摩藩の本領に逃れた薩摩藩を懲罰できずに、琉球列島(沖縄県)を地盤にし、密やかに過すのを見逃した。

薩摩藩が明治維新で『関ケ原の恨みを晴らせ』、と戦ったのが、実際の姿である。

★「この良いものだ!」と思えば、「何処から来たか」、「誰の知恵か?」に関係なく学び、複製する,のは日本人の遺伝子だ、と信じる。

以後の日本史に置いて、新技術、文化、学問が日本で広まって行く過程を注意深く見守って頂きたい。

~ローマ法王の野望~

(スペイン、ポルトガルの航海者、冒険家、野心家を手先にし、世界の民を奴隷にする)

★鉄砲が種子島伝わったのが1545年。フランシスコ・ザビエルが日本に来たのは1543年、ポロトガル、スペインは、ほぼ同時に日本に付いている。

両国王は、カソリックのローマ法王に、「どちらの領土か?」の裁定を仰いだ。

概略の日本地図を描き、ほぼ中央に腺を牽き、半分に分け、片方づつの領土にせよ、と裁定した。

そこの住人は?の質問に、「カソリックに帰依したら人間、帰依しなければ獣(動物)にせよ!」。裁定した。

ローマ法王は、スペイン、ポルトガルを先兵として世界征服を企み、有色人種は全て白人の奴隷にしようと企む恐ろしい存在であった。

~コロンブスの出現~

ケプラー、ガリレオの研究で、地球は球形である事は解っていが、アフリカの南端を回って太平洋のでる航路を発見して『喜望峰』と命名。新航路を創った。

ポルトガルのエリチン王子がその実証にコロンブスの大西洋を西に進めばインドに着く、を実証した事で大航海時代が始まった。

先陣を切って、大西洋の面したポルトガル、スペインが西周りで大陸の発見を争った。

ポルトガルに先手を取られたコロンブスは、スペインの女王の支援を受け、三隻の船団を組んで地中海を東進、太平洋に出てアメリカ大陸の西岸(現・キュウバー付近の諸島)を発見する。

だが、当時はアメリカ大陸の存在は知れて居らず、西周りで着いたインドで、西インド諸島と呼んだ島であった。

★その後に、多くの『探検家』、『野心家』『冒険家』が、アメリカが大陸である事を発見し、アンデス、インカは発見したが、閉鎖された古代文化国家を発見。

そこに鉄の衣裳(鎧、兜)で、鉄砲で武装した四百人のスペイン人が、馬に乗ってあれわれ、瞬く間に制圧した。略奪の限りを尽くした。

彼等は制圧した国の財宝を持ち帰って、自国を繁栄させたが後の英、仏、蘭のように植民地経営はしなく、略奪し尽せば終わって次に移ってアジアに到着した。

★だが、海洋国家の英国、蘭(オランダ)はインド、ビルマを経て、東洋に進出しアジアに到着している。

片方のオランダは地中海に面するが、ベルギーを挟んだとはいえ、ヨーロッパへの中央部を独、仏の大国に挟まれ、海洋に進出する以外に道はなかった。

そして小国とは言え、オランダの平野は低地で広く、農業は盛んで、今では牧歌的風景のオランダの風車は最先端の技術であり、重要な動力源であった。

★風力を動力元として石臼を回した製粉業や、人手でできない大きな材木の材木製材技術があり、大型船の建造も盛んに行われ、海洋進出に励んだ。

フランスは地中海を挟んでアフリカであって、アフリカの植民地を求めた。

★スペインは、15世紀の100年掛ったが南アメリカを食い荒らした後は、キューバの利権を求め、アメリカとの戦争に敗れ、唯一のアジアに置ける植民地を、2000万ドルを払ってフリッピンの支配権でアメリカに譲渡している。

だが、アメリカ、スペインの戦いでフリッピンの独立派にスペイン軍の背後を攻めてくれたら、戦後に独立を支援する。の約束を反故にして追加の金を払って支配権を買い取った。

怒ったフリッピンと、米、フリッピン戦争を戦うも、近代した装備と、数に勝るアメリカに敗北して、大東亜戦争に至っている。

★アメリカ軍は、フイリッピンとの戦争とせずに、内乱の征伐とし、討伐戦で20反乱軍を殺して鎮圧した。と議会に報告している。

★一方の日本では、織田信長が、伴天連の持ち込む、西洋文明の産物が欲しかった。

 こで、当時は命を危険に晒し、何千キロの航海をして布教にくる。

その湧き出す知恵と勇気は、キリスト教の思想の思想(信仰)が、根底にあるのでは?と、思った信長は、その思想を学ばんと、彼等に布教を許し、各地にセミナリオ(神学校)の建設を許したので、キリシタンが増加した。

植民地化を防いだ豊臣秀吉

★一方の日本では、織田信長が、伴天連の持ち込む、西洋文明の産物が欲しかった。

そこで、当時は命を危険に晒し、何千キロの航海をして布教にくる。

 その

湧き出す

知恵と勇気は、キリスト教の思想の思想(信仰)が、根底にあるのでは?と、思った信長は、その思想を学ばんと、彼等に布教を許し、各地にセミナリオ(神学校)の建設を許したので、キリシタンが増加した。

しかし、耶蘇を信じた者達が、知らぬ間にいなくなっている。

★信者に「神のお告げと偽り、船に乗せ連れ去って、海外で奴隷として売り渡していた」のが発覚した。

(耶蘇の信者となった女性は礼儀作法が正しく、地方の王侯、貴族の妾に好まれ高価で買い取られていた)。

スペインの船員が、「我が国の植民地にされるのも知らないで、僅かな陳品を貰って喜んでいるが、いずれは何処かに売り飛ばされる運命も知らず馬鹿な奴らだ!」と、スペイン語で、笑いながら話し合っていたのを、彼等と交流している内に、片言で覚えた日本人が聞き咎め、上役に密告した。

★それを聞いた上司の秀吉が、伴天連の野心が、スペインの世界征服の先兵だ、気が付いていので、主君の信長に伴天連の動きに気を付ける、と上申していた。 

だが、伴天連の持ち込む文化化を取り入れに熱心な信長は、スペインは遠隔地だ、そんな遠方から軍隊を送って戦争を仕掛けてきても、日本の武士が負ける筈はない。と、相手にされず、一蹴に伏された。

★事実、信長の死後、天下を取った秀吉が、伴天連に、「奴隷として連れ去った日本人を、代金は自分が払う。元の地に連れ戻せ!」と命じた。 

伴天連は「最早売った先から、また売られているので、居所は判らいので不可能です、」の返答に怒った秀吉が伴天連の布教を禁じた。

だが、伴天連は秘密裏で布教を続けたのが、発覚した。

激怒した秀吉は、関与した伴天連を捕らえ、『群衆の前で罪状を示した高札を掲げ』、罪状を示し、磔の刑に処した。関与しなかった者は国外に追放した。

★これを聞いて、マカオにある本部は、「神父を虐殺した!」と、怒った。

スペインの耶蘇教の本質、布教をして、信者を増やした後に植民地化する本性を剥き出し、牙を剝きだした。

★スペインのマカオ政庁、が本国の応援を求め、日本を攻略しようと動き出した。

しかし、戦国時代の戦争で鍛え上げた日本の戦力は、武士の強さ、鉄砲の保有数、生産技術、戦術、戦略、どれを取っても世界一で、とても攻め入る空きはなく、諦めたのだ。

★江戸時代の260年続いた、平和で繁栄した事は、武力の裏打ちがあって始めて、初めて江戸文化の華が開いたのである。

もし、この時に日本が軍事的に弱かったら、スペインに侵略され植民地となって、木造文化の日本など、地上に存在した事実などは一切残っていないだろう。

★だが、南米のインカ帝国、アンデス帝国、ナスカの地上絵文化、文明は、古代遺跡として残っている。

~世界一の武力による築いた平和と繁栄~

★江戸時代の繁栄は世界最強の、武力の裏打ちがあって始めて、初めて江戸文化の華が開いたのである。

「福島ミズホ、田島陽子、今回の都知事選の鳥越慎太郎に代表される似非・平和主義者皆さん、それを宣伝するマスコミの関係者諸君、一国平和主義の虚構である事を。が、お解りか!?」

★後世の政治家が、『ボケ老人』と、呼んだ秀吉の慧眼(ケイガン)が、日本がスペインの植民にされる事を防いだのである。

後世の歴史家が、『ボケ老人』と嘲った、秀吉の慧眼に、我々庶民は感謝して、喜ばねばならない。

私的には淀君と、淀君の産んだ秀頼を溺愛し、後継者に恵まれなかった事で、徳川家康によって滅ばされたのである事に同情する。

続いた幕府が鎖国して築いた、江戸時代の繁栄は、武力の裏打ちがあって始めた可能であったのだ。

★此処でひとつの「ifu」(もし)を考えて見たい。

筆者が思うに、

鎖国をして太平の時代になって、不要になった、武士団は、シャム(タイ国)、ルソン(フリッピン)に、貿易に活路を求め築き上げた日本町も繁栄し、アジア地区にスペイン、ポルトがると、アジアの覇権を争って進出した。

すると、関ケ原の負け組の大名達の家臣の、浪人は居場所を得たので、国内の天下は安定し、農民達は、農業に励み、経済も発展する。

一方のアジア地区は、英、仏、蘭の植民地ならず、日本人町も繁栄して、英、仏、蘭も共生でき、アジア解放の大東亜戦争は起らず、日本も先進諸国と世界の覇権を争って、世界情勢も替わっていたであろう。

これが、渡部昇一先生の唱える、ひとつの「ifu,(もし),」である。

徳川幕府の誕生

★だが、家康が豊臣を滅ぼし、天下を取った慶長5年

『元和偃武=1615年(慶長5年)元和(平和になった)』

『偃武(武器を伏せて武器庫に収める)』。

『平和になった、武器は武器庫に収めよう』と、宣言した、稀有の権力者であった。 

長崎の出島でのオランダと窓口として鎖国を実施したのである。

★そして世界にも稀な、260年も、戦のない平和が続き、江戸文化に花を咲かせた。

~江戸文化は庶民文化だ~

★あまり豊かとは思えない下町の、傘をさしては行き違いもできない、細い路地の軒先に朝顔の花を咲き競わせ、愛でる。

台所を含め、二間しかない長屋に、美人画を懸けて楽しむ。

東海道の名所、旧跡の風景を浮世絵にして楽しむ、等はヨーッパの貴族並の美意識だ、と幕末に、日本を訪れた旅行者の記述がある。

しかも、その価格は掛けソバ二杯分という安価なものであったのは驚きである。 

さらに芸術性に至ってはルネッサンの巨匠に多大な影響を与えている等は、二重の驚きである。

★しかし、日本が平和を謳歌している間に、欧米諸国は近隣諸国と領土争いの戦を繰り返し、武器、戦闘技術の進化を遂げた。

日本では、徳川幕府の260年を、為政者、一般大衆を含めて、太平を楽しみ、江戸文化の華を咲かせて。

ヨーロッパ文明もルネッサンで豪華賢覧に花は開いたが、貴族が中心の貴族文化で、庶民は蚊帳の外であった。 

★一方の日本の江戸文化は、『河原乞食』と呼ばれた貧乏役者が、河原に足場丸太で骨格を組み立て、ムシロを貼って小屋を立てた。そこで歌って、踊る。

自分も楽しんで、見物客を喜ばす。

現代の名門、『歌舞伎』となり、現在も続く、『歌舞伎座』の元祖である。

~日本の安眠していた260年~

★時代は下がって、アフリカ、中東、南洋群島の植民地化が終った、欧米先進国は、東西からアジアを植民地にせんと迫ってくる。

★鎖国(国を閉ざす)と言っても、キリシタン事件と関係なかった、オランダの商館を通じて世界の情報伝わってくる。 

ペリー率いる4隻の黒船は、1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、突然浦賀に来航した訳ではない。

オランダ商館を通じて早くから情報は入っていて、幕閣は秘密裏に対応の協議をしていた。

★さらに、勤王の志士という人々が討幕の準備に密航して知った、情報は隣のチャイナが『阿片戦争』に敗れ、悲惨のどん底であった。

この事実は、オランダ商館や、密航した討幕運動中の浪士達の情報で、幕閣も知ったので、早くから対策の協議は秘密裏に進んでいた。

★この『アヘン』は麻薬である。

違法を家業のネタにする日本の暴力団でも、『薬』(麻薬)の密売を稼業とする暴力団員は、中間内でも、最下位であり、中間内でも、「あいつ等は『薬』を扱う」、と顰蹙(ひんしゅく)を買っている。

これを政府の支援で行う、『英国を紳士の国』、と、マスコミを含め、一般に人が呼ぶ。

彼等が紳士ならば、私は紳士になりたくはない。野蛮人で結構である。

★この現実は幕府の重臣や、密航して勤王の志士も情報は共有し、危機感を持ったのである。それが、世界にも稀な、明治維新が成功した理由である。

~平和憲法であるが故の危機~

★現在の危機は北朝鮮の核・ミサイルの開発中である。

日本の『似非・平和主義者』は、戦争放棄の平和憲法がある。そんな国に攻め込んでくる、外国等は無い、と宣。

★だが、チェコのズデーテン地方を、ドイツ系の移民が多い、とドイツ帰属を主張したドイツに対し、英、仏が反対したが、ヒットラーが強固に主張。

戦争をも辞せずの雰囲気であった。  

★これが戦争に発展する事を嫌った、イギリスおよびフランス政府は、これ以上の領土要求を行わない、と約束して、英、仏陣営はナチ・ドイツの言い分を飲んだのが、『ミュンヘンの合意』である。

一度ひっこんだら、二度目の要求をしてくるのは、日本の暴力団を含む、世界の征服者の常識だろう。

~ナチ・ドイツは、これに自信を付けた~

もう少し侵攻しても、戦争を嫌う英、仏は退却するだろう、と、ナチ・ドイツがポーランドに全面的に侵攻した。これが大二次世界大戦への発展するのだ。

~北朝鮮と話し合え?~

★現在の北朝鮮の核武装化を防ぐ為に、日米は反対の圧力をかける事によって塞がんとするが、韓国の文在寅大統領は、北朝鮮と話し合え、と叫ぶ。

★韓国のインテリ層の代表をした発言である。 しかし、話し合い、譲歩は何度もしている。

その間に北朝鮮は時間を稼ぎ、内密で核開発を進めている。

大統領・文在寅氏の発言は、北朝鮮の核・保有を認めず、争えば偶発的な戦争に発展する。それより、北朝鮮の核・保有を認め、核拡散を抑える方が得策で、と唱える。

★だが、これ等の行為は、ナチ・ドイツの言い分を、戦争を避ける為と、ナチ・ドイツの飲んだ『ミュンヘンの合意』が、より大きな戦争、第二次世界大戦の導火線となった事を歴史が証明している。

★しかし、我々が歴史に学ぶと言っても、高校や中学校の教科書で教える、韓国的な歴史観ではない。 

朝鮮半島の歴史

大韓民国が独立したのは、朝鮮半島はチャイナの属国か?独立国かを争って、朝鮮半島を戦場に日清戦争で清国を破って、清国の朝鮮への介入を排除した結果の独立したのが『大韓民国』である。

高麗、新羅、任那の三国時代と呼ばれていたのを統一して、創始国と崇める明国に統一を報告し、何と名乗れば良いか、教えを請うった。

★明の皇帝から、新たな国号を『朝鮮』と『和寧』の二案から選んでもらうという形式的手順を踏んでいる。

★それを統一した李斯が638年前であった。

以後、朝鮮の創氏者、李斯の名を被せ『李斯・朝鮮』、また『朝鮮』はと呼んだ。

朝鮮が独立国家か?チャイナの属国化?を争って、始めたのが日清戦争であり、日清戦争に勝利した日本との講和条約で日本の下関で講和条約を無心で『下関条約』と呼ぶ。

★彼等、朝鮮民族の世界感は、文明の源は中国大陸で、そこから朝鮮半島を通り、日本に及んだもので、自分達は特別の存在と、根拠もない事を驕り、威張っていた。

★日本の天皇陛下と国民の信頼関係は?

~天皇陛下が昭和20年9月7日にマッカーサー司令官を訪ねた~

日本占領軍司令部ができた数日後の9月の始め、天皇陛下が通訳一人を伴って総司令部に、司令長官であるダグラス・マッカーサーを訪ねた。

★マッカーサ―は陛下が二個師団の近衛師団の精鋭の守る皇居に住んでいる、のは事前の調査で解っていた。皇居である元の江戸城は、徳川家を守るために造った要塞でもある。

~これを如何にして逮捕するかの思案をしていた~

★そこに目当ての陛下が、ひとりで自分を訪ねて来たのだ。

喜びを噛みしめ、MPに即座に逮捕できるよう命じた。

★「命乞いか?亡命希望か?」。尊大にソフアーに収まって立って迎えもしない。

★国際ルールに従った、挨拶が終わると、陛下は直立したまま、陛下は開口一番、

「我が方が受諾したポツダム宣言では、戦争犯罪人を裁くとある」。

★『朕』が日本国の最高責任者である。

彼等は朕の部下で朕の命で働いたに過ぎない。

従って部下に戦争責任はいない。

「強いて戦争犯罪人を裁くなら朕を裁け!」。 

「裁いた結果が極刑(死刑)であっても、甘んじて受ける」。

通訳はそのまま通訳して良いか迷ったが、・・・。

~天皇陛下は自分の命の変えても部下の命を守ろうとしたのだ!~

★世界戦史に例を見ないこの言葉に驚いたマッカーサーは、すっくと立ち上がって、

「日本の天皇陛下とはそのようなお方でしたか?」、私も、陛下の臣下に産まれたかった。 と、臣下の礼をとった。

陛下の肩を抱きかかえるようにして、ソフアーに座らせ、「陛下はお疲れのようだ。

コーヒーでも差し上げ、少しお休みをして頂け」と、部下に命じた。

★続いて陛下は、風呂敷包(皇室名義の有価証券の入った)を差出し、これが朕の自由になる資産の全てである。

八千万の国民が、戦災で家、衣類も全て焼かれ、その日の食べ物にも困っている。

閣下の御力で、国民を飢えから救って頂きたい。と、いうのだ。

~8月15日の玉音放送~

・・・・「忍び難きを偲び、耐えがたきを堪え・・・・・。の玉音放送を聞き、誰が召集した訳でもないのに、群衆が日比谷公園に集まって皇居に向かって正座して伏し拝んでいるのだ。

★同じ敗戦国でもドイツなら国民なら、皇帝に第一次世界大戦での敗戦責任の追及し、皇帝は国内に居たたまれずオランダに亡命し、墓にありかもも定かでない。

★対する日本は、国民は、皇居を伏し拝み、自分達の力が足らず、この『聖戦』と言われた大東亜戦争に負けた事を皇居に向かって詫びたのである。

★彼等は、後(9月7日)に陛下がひとりで、占領軍・総司令官を訪ねの等は知る筈はありません。

★この一事件で国民と陛下(皇室全てを含む)の信頼関係解ります。

~根性は現代に通じている~ 

その証が中華人民共和国に『対日戦70周年の記念軍事パレード』で、天安門の雛段に習金平氏と並んで御満悦の顔を見れば判る。

つい、60年前の北朝鮮戦争の北朝鮮を援助した、共同の敵であった事等は、忘れたように中国寄りである。

★韓国は日本に対しては『歴史を直視せよ!』と叫ぶ。我々は韓国(朝鮮民族)こそ『真実の歴史を直視しろ!』と言わなければならない。

★世界史に例を見ない天皇陛下の存在(これは、筆者が一番強調したい事である)。

~日米開戦すると!~

★昭和16年12月8日ハワイの真珠湾軍港を奇襲攻撃し、停泊中の、アメリカの東洋艦隊を壊滅させた。

12月10日にはマッレー半島沖で、英国自慢の『不沈戦艦』と呼ばれるプリンス・オブ・ウエルスと、友艦、レパレスを撃沈、イギリス東洋艦隊の主力も壊滅さす。

★翌、昭和17年(1942)年2月15日にはイギリスのアジア統治の拠点、シンガポール要塞陥落。

続いて、鉄より固い、と言われた香港島を占領する。 

★続いてアメリカ領・フリッピンの首都、マニラを占領、米兵の逃げ込んだバタア―ン半島、突端に位置するコレヒドール島要塞も降伏で、予想外の捕虜の多さで捕虜の食糧調達に苦労する。日本の兵站は、元から不足していた。

バーターアン半島,死の行軍と言われた。食糧も水もなく、捕虜達は田圃の水を飲み、中毒死する者が続出した。

武装を解除された捕虜は手ぶらであるが、連行する日本兵は完全武装である。

だが、日本軍の軍律は厳しく、飢えも、喝も堪えて歩いたが、見張りの日本兵の眼を盗んで、田圃の水を飲もうとするのを、見つけ、監視の兵隊が殴って停めたのを「水も飲まさず虐待した」、と戦後の裁判で処刑された兵士も大勢いた。

★東京裁判は、正に負け戦の報復である。

★初手から日本軍の兵站輸送にも困難しているのに、この捕虜の食料にも窮し、司令官が、「食うに困って始めた戦争で、捕虜の食料まで心配する等は、マジャクに合わない、」とボヤイタそうである。

★目的の2月14日にはオランダ領で油田地帯のパレンバンを落下傘部隊(329名)の奇襲攻撃で占領した。

戦死は36名、負傷は37名で、この奇襲攻撃の成果は最高の成果であった。

日米開戦、参ヶ月での急進撃で、目的の油田地帯を手にしたのである。

この急進撃の作戦を立てた参謀、指揮を執った現地の指揮官、作戦部隊の兵員の苦労が忍ばれる。

~筆者のひとり言~

★電撃作戦は成功し、南方の油田地帯を手にし、作戦は成功した。

同時に日本の欲しかったのは『石油』である。

この安定供給ができる保証を得れば、領土的野心はないので占領地は何時でも返還する。と宣言すればどう発展したであろうか。

★緒戦こそ快進撃を続けた日本軍ではあるが、1442年(昭和17年)ガダルカナル沖海戦で、海は濃霧で敵影の見えないのに至近弾が飛んできた。

日本の巡洋艦の艦長はレダー(電波探知機)の研究に関係した事もある艦長は、「ア!敵が先に完成させた」。

★日本の連戦連勝はこの頃で終って、昭和17年6月5日のミッドウエイ海戦の戦況は怪しくなってきた。

~戦況は坂道を転げ落ちるよう~

★硫黄島の戦いでは四日間に亘って、島の形が変わる程の空爆、艦砲射撃を行い、五日で占領する、豪語した。

だが、本土防衛の要、一日でも長く、米軍を釘付けにせんと、持久戦に徹し、37日間も護り通し、玉砕(全員が戦死する)した。

続くサイパン島は民間人も数多く生活していた。アメリカ軍の侵攻で逃げ場をなくした民間人が、絶壁から「天皇陛下万歳と叫んで身を投じた」、戦後「万歳クリフと」と呼ばれ、最近、天皇陛下も慰霊に行幸されている。正に「語るも涙」である。

この原稿を書いていても涙がでるので、この辺で辞める。

★あれだけ激しく玉砕(守備隊全員が戦死)するまで戦った日本軍も、沖縄を失って『ポツダム宣言を受託する』、という『玉音放送』で、戦争は終結した。

日本本土にアメリカ軍が本土に進駐したものの、一発の銃声も聞かなかった。 

★あの激烈な玉砕(全員が戦死)するまで戦った日本軍は、艦艇の多くを失った、空軍の殆どを失い、戦闘力の殆どを失った。

だが、本土決戦を叫ぶ陸軍は、ソ連、満州を護っていた当時、世界の最強と呼ばれた関東軍、を本土防衛ように本土に戻して陣地を構築中で可なりの戦力がある。

これが勝手知った故郷を守る為に死、力を尽くして戦えば、米軍にどの位の犠牲者が出るか判らない。その精鋭がが、どこに隠れてゲリラ戦を戦うかを恐れた。

~神話のある国は歴史も古い~

★初代、神武天皇始め、何代かは神話の世界である。 

しかし、神話のある国は歴があるが、国連加盟国は200ヶ国程あるがギリシャ、ローマ等で幾らもない。

ましてや、ギリシャ神話に出てくる『トロイ戦争の英雄』の、現在の系図はない。

★だが、日本の神話で『天孫降臨の従者』の藤原何某は、貴族政治の中核を担った藤原一族である。 藤原氏は娘を天皇の后にして『舅』(シュウト)にはなっても皇位は狙わないで、臣下に甘んじる。

~我々は占領軍によって創られ日本史を教え込まれたのである~

即ち、国民と天皇陛下は善良であったが、財界が軍部を取っての独走が戦争を招いたのであって、国民と天皇陛下は平和を愛したのである。と、教えられた。

占領政策の置き土産として、戦争の放棄と、交戦権まで否定した憲法を置いて行ったのだ。

それを革新と称し、反米を唱える共産党、民社党に進歩的と言われるマスコミに関する諸兄が、挙って『護憲』を唱えるのは不思議でないか? 

★97代目の安倍内閣が、やっと『戦後レジ-ムからの脱却』を叫び、『憲法改定』を唱える初めでの総理である。

~事を疑心暗鬼の眼でみるアメリカ~

今次大戦の概要は、日露戦争に勝利した日本を白人のロシア帝国に勝った事に、世界で賞賛の嵐が巻き起こった。

★だが、アメリカ人は賞賛と同時に不安の心理が湧き上がって、日本人は明治維新のよる近代化を始めて40年足らずで、当時最強と言われたロシア軍を破った。

さらに、これも世界最強と自慢のバルティック艦隊を全滅さす、という世界戦史に類を見ない圧勝である。 

これは、アメリカ人の間に恐怖感を湧き起こすに十分な事であった。

『日米もし、戦ば?』、と、ら危機感を煽った。

★メリカの東洋艦隊の実力

アメリカの東洋艦隊に日本艦隊と戦って勝てる戦艦はない。

『日米もし、戦わば?』の疑念からと、アメリカのマスコミは世論を煽った。

日本海軍の戦艦に対抗するには、大西洋艦隊の戦艦はパナマ運河を通って、大西洋から回送しなければ、の危機感から軍拡に走った。

筆者が思うに

アメリカと言う国は、常に、何処かの国を仮想敵国にして、戦って勝つ事を目標に軍備を整える、戦争好きだ、というのは本当だと感じた。

反日運動の始まり(人種差別)

★そして1924年(大正13年)『絶対排日移民法』を制定し、日本からの移民を排除し始めた。

絶対排日移民法の制定の6年前にアメリカ政府の意向を組んで、対米移民の自主規制をしたが、ヨーロッパ系の移民を促進する一方での排日は人種差別に他ならない。

★最高潮に達した排日論も、第一次世界大戦で、日本が連合国側で参戦、ドイツ唯一のアジアの植民地であった青島要塞を陥落させ、信託統治の南洋群島の攻略に、実力を発揮して、排日世論も収まった、かに見えた。

★だが、ヨローッパ戦線でドイツの『U・ボート』(世界初の潜水艦)の活躍でイギリスの輸送船が壊滅的な打撃を受け、ヨローロッパ戦線の英国軍は食料が届かず、干上がる危機を感じ、日本に掃海艇の応援を求めてきた。 

★掃海艇は、磁気機雷の防衛の為に『木造の小型』で、日本から地中海への回送は、ロシアのバルティック艦隊のアジアの日本海に持ってくるのと同じ位の難事業であった。

それを、何とか無事回送して、U・ボート軍団を壊滅させた。 

この実績を賞賛する、と同時に連合国が総力を挙げても退治できなかったU・ボートを撃滅する日本海軍に恐怖を感じたのであった。

★だが、その功績もあり、戦後処理の国際連盟の常任理事国になった、初の提案が『人種差別の撤廃』であり、多数決の安保理で成立させた。

だが、アメリカが異を唱えた。

「こんな重要法案は多数決の安保理でなく、『全員一致の総会で決めるべきである』と否決、廃案にしてしまった。

『人種差別の撤廃』の提案などは、黄色人種の日本しかできない出来ない提案である。

~これが白人国家を全て敵に回した!~

大東亜戦争の旗印は、「アジアイギリス、オランダ、フランスの植民からの解放である」。

~世界大恐慌の勃発~

★第一次世界大戦(1914年から1918年)は、ドイツの降伏で連合国側の勝利で終わった。

欧州一帯は大戦で破壊し尽され、破壊から取り残されたアメリカ大陸は復興景気に沸いて、最早、バブルであった。 

湧きに沸いた復興景気も、欧州の復興が進んで、物不足も収まり不況が忍び寄ってきた。

★1929年10月24日の午前10時25分。ニューヨークの株式市場にてゼネラルモーターズの株価が80セント値下がった。

これを機に市場は売り一色となり株価が大暴落することになった。

わかっているだけでも株式関係者11名がこの日に自殺をしている。

★これをきっかけにアメリカの株価は下がり続け、やがて、この景気悪化は世界同時不況へと広がっていくのですが、この世界大恐慌の原因はどこにあったのだろうか?

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