「極東の粟粒、谷間に住む八千万国民へ!」

★昭和20年8月15日(彼は国民学校6年)

昭和20年8月15日(筆者が国民学校6年)「ガーガー」と聞き取りにくい玉音放送を聴き、「神州日本は鬼畜米英に負けたのだ!」と理屈は判っても、まだ実感の沸かない頃である。

数日もすると、灯火管制の黒色のカバーが電球から外され、窓ガラスの飛散防止用に貼られた紙も剥がされ、街に外灯が点き出した。

我々は「夜もこんなに明るかったのか?」と感心していた頃の事である。

★当時の社会の概況

国家総動員令で「ガソリンの一滴は血の一滴だ!」と言われ、国内を走るトラックは木炭を炊いた走る木炭車と呼ばれていた。

やがて木炭も不足がちで、木炭と同じ長さに切った、堅木(ナラ、クヌギ等)を不完全燃焼で発生するガスを炊いて走る代用燃料車(通称・代燃車)であった。 

走る時にはモクモクと煙を出す代物であった。

これも「軍需物資で国家の統制下であった。」

これ等を扱う業者の薪炭業が全国で集められ、統制会社を創られた。その役員であった父は仕事に誇りをもって当たって、代用燃料の開発に昼夜を徹して働いていた。

★食料事情の悪化は、敗戦の発表以前はまだ国家の権威があり、『遅配』と、言って、遅れながらも配給はあった。

敗戦で国家権威が落ち、都市部では『欠配』がしばしばで、『一億総闇屋』で喰っているような状態であった。

父は理想が高かった明治の男であった

そんな頃に父が、まだ小学六年生の僕に言った言葉である。

「もうすぐシナ大陸や南方諸島から、大勢の軍人、民間人が引き上げてくる。日本の国土は山が多く平地は少なく、従って農地は少ない。日本人は凡そ八千万、どうしても四つの島で食べて行けない。

都市周辺の里山を開墾し、農地を増やし、山には木を植え、林業を盛んにすれば8000万の人間も何とか食って行けるだろう。

その準備をするのが本土に残っていた我等の仕事である。

と言って創ったのが「希風造林社」であり、その檄文の書きい出しが、

「極東の粟粒、谷間に住む八千万国民へ!」であった。(全文は覚えていない。)

そして僕等には、「お前たちも自分の将来の仕事を考えねばならぬ」。

日本と言う国が残るかどうかは、占領軍の意向次第で、判らないが、日本が残ったとしても軍人と言う職業は無いのだ!」何になっても良いが、

「金を儲け贅沢な暮らしがしたければ商人(あきんど、実業家)になれ」。

「天下国家の為に働きたければ官吏になれ!」

しかし官吏になれば生活質素でなければいけない。

つまり「清貧に甘んじる覚悟がいるのだ」。

(勉強の良くできた僕には、)

「学者、大学教授になり学問をしたければ、我が家の財産では無理だ、資産家の娘さんを見つけ養子に行け!もしくは持参金付きの嫁を貰はなければむりだよ」。」

と、口癖のように言われていた。

★当時の世相の概要

間もなく中国大陸からの引揚者は洪水のように大量に帰ってきた。戦災を免れ、疎開で空き家のままの家、お寺の本堂以外の建物はその受け皿とされ、手荷物だけの引揚者で埋ってしまう勢いであった。 「希風造林社」は彼等の仕事を提供した。

あらゆる物資が不足資する時代、松根油を搾るために根っこだけ使い、残った丸太や枝、葉は切り捨てられ、廃材として山腹に放置されていた。

切り捨てられた廃材を、彼等が運びだし、一定の長さにカットして造った柴、薪は飛ぶように売れ、父は昼夜の別なくなく働いた。

そんなある日、父は「辞めた!辞めた!あんな奴らの面倒を見るのは!あんな事をしているから日本は戦争に負けたんだ!」と怒って仕事を投げ出して、火鉢の脇の座り込み、火箸で字を書きながら、物思いに耽って終日を過ごしていた。

後日、関係者の話によると、作業をしていた引揚者の一部の者が、自分達が伐りだした柴を、木立の陰に隠し、全員が帰った後で、闇に紛れ、運びだし売って着服していた。

それを見つけた者も、報告するどころか、脅かして分け前を貰って協力していたのである。

★余の事に呆然自失、家族を養う事も忘れたように、一日中、火の消えた火鉢の脇に座り込み、物思いに耽っていた。

それでも家族は食わねばならない。残った有志、数名と残務整理を兼ね、搬出した廃材を薪として売ってのその日暮らしであって。

幸か不幸か?戦後のインフレは激しく、物価は今日より明日は高かく、薪も高値で良く売れた。 闇市は全国各所にあり、此方で買って、あちら向いて売れば利鞘は稼げる時代も終わり、社会も少しは落付きを取も戻した。 

★気を取り直した父も職場に復帰し、ささやかながら一家で薪炭の小売業を営んで、一家の生活もそれなりに安定し、家業は自営業として家族で薪炭販売をしていた。

★林業とは山師である

後で気が付いた事だが、薪炭業で一家の生活も落ち着いき、小金が溜まると、それを持ち出し日常業務は僕等の任せ出歩く事が多かった。

「何をしているか?」統制会社以前の仕事、本業の準備に出歩いていたらしい。

僕は子供で良く解らないが、ヒノキの苗を植林して木材となる樹木を育てる。

つまり造林(植林)業である。

★初めは間隔を狭く取って植林して、風雨から樹木を守らす。育つに従って樹木の間隔を広くするために未成熟の木を選んで伐採する。これを間伐という。

間伐された未成熟の木は薪(燃料)として売られる。

ガス、電気は電灯といって照明にだけ使われていて熱源としては普及していない。

一般家庭の燃料は、この薪、柴で、需要も多かった。

★丸太は太るに従って間伐され、木々の間を広げ、風通しと、地面の日当たりを良くする。

日当たりの良い土地には雑草は這え、間伐した株からも芽がでて勝手に育って、本来の丸太の成長の邪魔になる。 

また、この下刈りをし、林間を風通して良くして、丸太を太らす。

林業とは人手のかかる仕事である。戦争が始まると兵士が多数必要となる。

農林業、漁村から兵士を募る。人手が減って農林業が衰退する。 

期間を決め、伐採をする、その準備をしていたのである。

★山を管理し、植林をし、間伐をし、搬出さて元の山に植林し、件の管理を繰り返すのを

『林業家』と、呼ぶ。道路脇まで運びでされた材木を製材し、商品化するのを『製材屋』で、『俺は林業家だ』、『俺は製材業』だ、と、それぞれプライドが高い。 

父の仕事は、その間の業務を請負い、取り次ぐ、今風にいえば『コーディネㇳ』と、いうのであろうか? 手取り早く『山師』とも呼ばれている。

★台風の被害にあった

彼の親が洛外の間伐を急がねばならない山林の、伐採を契約、伐採の準備をしていた。

労務者の寝泊りする山小屋の建設、搬出する林道(間伐材を使って簡易線路を造り)、キンマと呼ばれた台車もできた頃、苦労して造った、台車もキンマ道も、台風の襲来で一夜にして激流に流されてしまった。

★僕は山を見回る父に付いて山を歩いて、山小屋に一泊して事も何日もある。その時に夕立にあって、山小屋で雨宿りをしたことがあった。雨が上がって日がさして、でて見ると、

普段は穏やかに流れる渓流が濁流となっている。

古典で、「道は変じて河となり、河は変じて海となる」、とあるが、正に渓流に沿って造られた道は、川と合体して、激流となって流れている。 もとの河は谷と合体し、水の多さはまるで海である。海は波は立てるが激流のようには流れない。

たった一時間の夕立である。この水は何処に溜まっていたのか、不思議な程の量であった。

これが台風で二日も豪雨が降ったのだ。何とも恐ろしい激流を経験した事があった。

ソマ師は山小屋を山の中腹に建て、河までバケツをもって水汲みに行く。

何でこんな所に小屋を立たずに河辺に建てれば良いのに、彼等は馬鹿だな、思った事がはずかしくなった。

★山師は経験と直感から、豪雨が来て、増水しても激流も届かない所を熟知しているらしく、その僅か上に山小屋たてるのだ。

この仕事は始まっても現金になるまでには,長い時間が係る。山師にそんな多額の資本はない、手付を払って、後は出荷いした材木が金になってから払う、危ない商売である。

だから、山師と呼ばれるのであった。

★そんな時は『素封家』(地方の名門で地元の為には出費を厭わない者)と呼ばれた山主が何かと面倒を見たが、何しろ、ダンプもブルザーもない時代、土砂を運ぶのはモッコで担ぐか、簡易レールを敷いてトロッコがあれば最高の時代であった。

その時襲った台風は県道の橋まで流失、一年近く復旧できなった、大事件であった。

父はその後始末で、日常の商い等は残った家族に任せっぱなしであった。

★生の大事決心の日

この時期、彼の生涯を決した二つの事件があった。

台風の被害は一家の生活にも甚大な変化を及ぼした。

一家の生活は母の営業と僕等(弟)が学校から帰ってからの配達するくらいでは食っていけない。

★高校は休みがち、担任の先生に事情を聴かれるが、父の仕事が台風の被害で大変なんで、家の仕事は僕が手伝わなくっては!?

商売の詳細、家族構成、父の年齢を聞き、『君が家を出て学校の寮に入れ、寮費は学校の給仕(OLという言葉当時なく、雑用をする少年を給仕とよんでいた)をすれば賄える。

学費は奨学金を申請すれば、君の成績な心配はない、と家に来て母と話す。

「この子には有難い話ですが、私ひとりでは下の三人の弟、妹を食わせて行けない。父の復帰も見込みの立たない今、下の兄弟が義務教育の不就学児童なってしまう」、ので、泣き出し、「お前、どうする?」である。

「一も二もなく学校は辞めて働き、家業を続けます」。で、一決。

★そんな大事件はどこ吹く風と仕事に励んでいた。

そんなある日、僕は店内の整理や配達の準備の為に店内で働いていた。

そこに税務調査員がきた。生憎父は不在だ。

高校二年生だった僕は、問われるままに商いの概要を説明していた。 ここ数年の経験で父はソロバン勘定の苦手の父は、事情を説明すれば何とかなりそうだ。

だが、説明するのが難しいので、税務調査を逃げているな、と感じた。

★替わって僕が積極的に税務署員の質問に応じた。

二~三度不在が続き、僕の回答で要領を掴んだ税務署署員が、

「君の名で申告したら?」、

「僕、学生ですよ、来年から大学に行くのですよ!」。

「学生控除を使えるから丁度いいよ、」

「親父は?」

「扶養家族で仕事を手伝えば専従者控除もできる」。

「そうしなさい、」。 件の署員は一人で納得して帰って行った。

帰った父に件の話をする」。

「お前が戸主で、俺が扶養家族か?専従者控除で仕事を手伝う、面白い、それが好いで即決」。

★そんな事で、高校二年生で17歳の子供が戸主(事業主)として、税務申告をして実業家への第一歩を出したのである。

17歳で事業主として営業を始めたが、17歳の少年には解らぬ事ばかりである。 

そこで僕が取った方法は、何でも問題を提供した相手に聞く、であった。

経費の処理は税務署員に、「これはどの勘定科目に入れるんですか?」。

「仕入れ先に買掛金の支払い期日を延ばすには、『手形を切って欲しい』との言われると、手形が何だか知ら知らない僕は、「手形って何?どうすれば造れるの?」と、怖いもなしで何でも聞いた。

「銀行を尋ね、ああしろ、こうしろ」、と、手取り、足取りで教えてくれた。

こうして銀行取引と、借入金の方法も覚えた。

事業に必要なだけの仕事を、仕事を通して覚える。

正に仕事をしながら、仕事を覚える(正にオンザジョブであった

父は経理にも商売の実務にも疎く、あまり教えて貰った覚えはないが、高邁な理想主義は親譲りである。

★まだ、高校生で坊主頭の少年が、前垂れを掛けて働く姿が可愛かったのか、回りの人達も親切の教えてくれた。だが、世間には無知な若造を騙して儲ける悪人が多い事も知った。

★しかし、同じ人として産まれた時から、もって産まれた宿命のように、努力だけでは如何とも為しがたい能力と運命に違いがある。 

★ここに17歳で一家を代表し、税務申告をした、類稀(たぐいまれな)な人生の苦楽を、身をもって体験し、自分の人生観を確立した男の人生を紹介する。

★自己紹介

謙遜して自分を紹介する時に『浅学菲才』の私と挨拶するが、「彼はその浅学である」。

「何故?」、まともに学校で学んだのは高校二年までで、定時性(夜間)の商業科である。

同志社大学経済学部に入って、6年間通ったが、家業は繁盛し忙しかったので、出席点の要る語学に単位は足らなかった、ので単位不足で卒業はしていない。だから浅学は間違いない。

★だが、『非才』と言うのは、「意義あり!」と、筆者は自信をもって宣言する。

何故ならば、前述から、後述のような経験が血となり肉となり、知識となって、突発した事に対応する、これが独自の才能である。

★幼年時代の彼は、頭は悪くはない方だった。小学校に上がる前に、近所の悪童を集めて本を読んで聞かせ、得意がっていた記憶が残っている。 

必然的に小学校の授業で先生の質問に手を上げるのは一番早かった。答えもほぼ妥当だった。

★何時ものように一番に手を上げると、先生は「豊永高明君の他にないか?」、と教室中を見回し回答者を探すので手を上げない事にした。でも、生徒中でひときわ目だった存在であった。

そこで授業中でも他の学課の予習をするか、内職(授業と関係ない本を読む等)に励んでいた。

★そんなある日の事、気が就けば六年になると手を上、答えをいうの、他の生徒と競い合って、後塵を俳するのだ。

中学に入ると、成績は上位グループにいるが、目立つ存在でなくなってしまった。

『十で神童、十五で才児、二十歳過ぎれば唯の人』と言う言葉がある。

これでは彼は『二十歳になる頃には唯の人、30歳になったら馬鹿になるんじゃないのか?』と、筆者は心配になってきた。

★前述のように、二年で学校は辞めます、と退学届を出しと、既に事情を知っている担任の先生が「父親だって何れ帰ってくる。何としても学業は続けろ!」と言うので、定時制の四年(当時は四年制の夜間高校もあった)に編入する。

敗戦間もない当時は占領地に勤務地から、手荷物ひとつで逃げ帰ったよう引揚者の子弟が、本土で学校に行き直そうと思っても、学歴証明をしてくれる組織はなく、何でもよい高校の卒業証書を貰おうと夜間高校に入った年嵩(年を採った)の生徒も多く、全ての点で甘かった。つまり、高校3年の勉強などは全くしていない。

★貧困学生援護の為に給食と言ってミルクがでる。バケツで持ってくるのを何倍もお替りする者がいる一方、教室を出て煙草を吸ってくるもの、年齢も立場も様々である。

★そこにまた、件の村田先生が大学に行って置け、と説得にきた。

入試準備を全くしてない彼に、推薦するから大学は入っておけ。と言う。

当時の同士社は、経済学部は人気があって、商学部が受け皿として滑った者を受けいれていた実績があるのを知って、ズウズウしく『商学部』は嫌ですよ。

この世話を焼いてくれた先生が、後に彼女を紹介し、仲人を務めてくれた御方である。

★「判った、判った、経済に推薦してやる」、という事で、推薦で同志社大学経済学部に入学。

大学は入るには入ったが六年経っても必要な単位が取れず、六年目に学生課の呼び出しがあって、退学勧告だ。

「学則では7年と書いてありますが?もう一年はある筈」、

「君は後一年では必要な単位の取得はできない、」で、「登校するに及ばず」の内容証明位が届いた。

でも、商法その他の聞きたい講座は二部の講座(当時は夜間部もあった)に、二部生に混ざって(偽学生を天ぷら、と呼ばれていた)。

その天ぷらが、人生で直接役に立つ講座は、商法等は真面目に授業を聞き、勉強したので現在も役に立っている。

★卒業証書は漏れへなかったが学費は納めていないので、損をしていない。

★環境の流れに乗った本格的な人生の始まりである。

国土の殆ど全域を焼野原にされた日本も、前術のようの、復員兵や海外活躍していた人々が帰国し、経済活動に参入、膨大な戦力となって国家の復興の緒に就いた。

しかし、占領軍の政策は戦争に協力した財閥の解体や、率先協力した人々が、公職追放の名で、学者、経済人の追放が始まって、20万人もの人が現場から去って行った。

★上智大学・名誉教授・渡部昇一氏の説は、

「占領軍が日本を潰す目的で、追放した学者の穴埋めに入れたのが、マルクス経済を信奉する左翼系の学者の勢力に占領された。

現在もその子弟達が反米思想で凝り固まって大学を牛耳っている、のが日本の『癌』だ、言っている。

だが、私が思うに、幸いなことに、経済会での役員交代は、戦争帰りでアメリカ軍の強さの原点が、物量の差である。

つまり、工業力の差で、大量生産で、殆ど無尽蔵と言える物量の差を、身をもって体験、熟知した彼等に実権は移項された事である。

彼等はフルブライトの奨学金を貰って争うように渡米(2~3年)、アメリカの手口、思想を学んで日本に持ち帰り、日本で実行した。

★アメリカのメーカーも快く迎え、惜しみなく技術を教えた。こんな話もあった。

『とある日本の地方のメーカーがアメリカ企業の技実が欲しく、アメリカのメーカーに電話を掛け、要件を伝えると、「良いですよ、空港までお越しくださればお迎えに行きますよ」。

空港に付と迎えの自働車で待っていて、工場見学をして朝・昼・晩の食事は愚か、ホテルの滞在費まで持ってもらった、の話を聞いた事があった』。

往復の飛行機代以外は、正に「上げ膳、据え膳」で、技術を取得したのである。

★彼もまた、フルブライト帰りがいる、と聞けば、寸暇を惜しんで、訪ねて行き、貪るように聞き漁った。 

彼等は自慢げに我々の語ってくれた。例えば日本でドリルと言う機械は垂直に穴をあける機械だ。

でも、アメリカさんは違うんだ。横にも斜めにも同時に行く幾つも空けてしまう、等々・・・・

当時の日本人全てが、

『アメリカに追いつけ!追い越せ!』の合言葉で、原価低減、増産に励んだ。

気が付けば『世界・第二の経済大国』にのし上がっていた。

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