『駆け足で読む近現代史』


第二部

★最早アメリカは、バブルである。

分不相応な広い家を建たり、当時はお金持ちしか持てなかった車を購入し、繁栄を楽しんだ。

また、増えたお金はもっと増やそうと株に手を出す人も多くでた。

★アメリカの企業の株を買っていたのは、アメリカ人だけではなく世界の投資家の多くが買い捲った。

戦争で疲労した自国の企業の株を買うよりも、順調そうに見えるアメリカ企業の株を買ったほうが儲かりそうですからである。

もはやアメリカ企業の株価は本来の企業価値など関係なく、どんどん上がってしまう銘柄も出てくるのである。

~そんな時代は長くは続く筈はない!~

★当時のアメリカの好景気の要因は第一次世界大戦によってヨーロッパが疲弊していたこと。

そのヨーロッパが復興してくると、アメリカでは経済の雲行きが怪しくなっていきた。

まずは農業。

ヨーロッパ農業が復興してくるとヨーロッパからのアメリカへの注文が減り出した。

★自国である程度賄える物は、アメリカに頼る必要もなくなる。

さらに、この時代に冷凍運搬のシステムが当時普及し始める。

こうなると安いラテンアメリカの肉や農産物が、どんどんアメリカに入ってくるようになってくる。

★冷凍システムが発達してくると、腐敗の心配もなくなるから、安いラテンアメリカ産の肉が売れるようになってくる。

★また、干ばつなども農業不振に追い討ちをかけるので、これで農業恐慌がアメリカで起きる。

★続いてに工業も、こちらも同様にヨーロッパの復興によりアメリカ製品が売れなくなっていきている。

さらに、アジア諸国の安い労働賃金の国も、アメリカにとってのライバルとなってきた。

~続く工業も、アメリカ発の大恐慌が保護貿易に走る~

★アメリカ政府は、自国工業の保護に為、当時かなり高い関税を輸入品にかける。

当然のように、各国もこれに対抗しようとアメリカからの輸入品に高い関税をかける。

アメリカにとっては、関税を高くすれば、安い輸入品が入ってきづらくなり、自国の産業を守れるというメリットがありますが、相手国にまで高い関税をかけられたら輸出品が売れなくなるのですね。これで、アメリカは輸出不振に陥いる。

~ついにその日、が株価大暴落やってきた~

ゼネラルモータースといえば、超が付く有良企業である。

アメリカを代表する企業の株価下落に吊られるように、USスティールという鋼鉄メーカーの株も下がり、次々に他の企業の株価も落ち続ける。

★これが「暗黒の木曜日」といわれる10月24日の出来事である。週末にはいったん持ち直しますが、週明けには売り一色!!株価大暴落となるのである。

~何故!アメリカの不況が世界大恐慌にまで発展していったのか?~

★まず、第一次世界大戦で敗戦国となったドイツが直撃を受ける。

これは、「当時ドイツに対してアメリカが資本を輸出してあげるから、ドイツは経済を復興させて、しっかり賠償金をイギリス、フランスに対して支払いなさいよ」という約束がなされていたのである。

★なぜ、アメリカがドイツにそんなに援助するかというと、戦争中にアメリカはイギリス、フランスに資金を融資していた。

イギリス、フランスは賠償金貰って経済が立ち直ったら、アメリカに返済する事になっている。

~ブロック経済に対する日本の対策は満州に求めた~

アメリカの市場を閉ざされ日本なシナ大陸に市場を求めた。

ロシアが日露戦争以前に清朝から奪っていた満州の権益を譲って貰い、活路を満州に求めた。

~満州事変からシナ事変へ~、

清朝末期で、各地に軍閥が跋扈するシナ大陸で進出する日本を抑え、清朝崩壊後の権益を得ようとしたのが浙江財閥であった。

有力な軍閥の長、蒋介石に、宋美齢を嫁がせ財政的な種々の支援を実行した。

宋財閥の資金と、アメリカの武器援助を受けた、蒋介石は、南部の浙江省を地盤に、一大軍閥に成長した。

★因みに『浙江実らば万民飢えず』と呼ばれた穀倉地帯で、浙江財閥は財政も豊かだった。

蒋介石主導で、此処を基盤にして北伐戦を繰り返し、シナ統一戦線に臨んだ。

さらに、国共合作の抗日戦線を繰り返し行ったが、毛卓東率いる『ハチロ』(共産党軍)は、日本軍と戦って兵力の損傷を防ぐ為に、逃げ回って、蒋介石率いる国民党軍との戦闘に温存せんと図って戦争はあまり進展しななかった。

★焦ったアメリカは日本との直接対決に走って直接対決に向って、アメリカの対日挑発

日米直接対決

~日米の直接対立が始まる~

白人が支配した世界に黄色人種の日本人が躍り出て、白人の牙城に日本が進出した。

そこでシナ大陸では一軍閥に過ぎなかった、紹介石の国民政府軍に武器供与を始めあらゆる援助をし、ブロック経済でシナ大陸の進出以外の道が閉ざされた日本に、さらなる封鎖をすべく戦争を仕掛けた。

★ちなみに、蒋介石は日本の士官学校で学び、日本の砲兵連隊に勤務の実績のある人物である。

★日本の将校程度の総司令官の軍隊が、米式装備を持ったといっても勝てる訳はない。

連戦連敗で、補給ルートの港湾は封鎖され、止む無く開発した『援蒋ルート』と呼ばれたビルマ国境の山岳を削って造った道も日本軍の爆撃で破壊され、修復を繰り返す羽目になる。

★困ったアメリカ軍が思い付いたのがチャイナに戦闘機を持たす事である。

しかし、飛行隊の派遣となればパイロットはもとより、飛行場の建設、地上勤務の整備士の養成がいる。

そこで考えたのが退役軍人を義勇軍として100名派遣することであったが、退役パイロットだけでは足らず、わざわざ現役軍人を退役させフライイング・タイガーと命名した航空隊をシナ戦線に投入した。

★だが、日本航空隊は完成間もない最新鋭機ゼロ戦の初陣で、アメリカが自慢するカーチス戦闘機を空中戦でバタバタと撃ち落とした。これが事実上の日米開戦である。

米英の軍事専門家は、日本人は近眼が多く、眼鏡を掛けていて、パイロットには向かない。

ドイツ人を雇っている、と侮っていたのが、この始末である。

★この時の実績が日本に対米戦争へ踏み切る自信を与えたとの説もある。

★アメリカも負けて引き下がる訳にも行かず、『シナ大陸、仏印はじめ世界中に展開、駐留する日本軍の完全撤退』という受ける事のできない条件を付け、「ハル・ノート」なる日米開戦の最後通告を出している。

~ハル・ノートと称する実質の宣戦布告~

では、ハル・ノートとは?

★しかし何故日本は正式統計のGDPでは日本の四倍だが、国土の広狭・人口の比、資源の有無、工業生産の発展状態を見れば、実力は日本の10倍と言っても過言ではない。

この現実を無視してまで『日米開戦』に踏み切ったのか?

常識では考え難いが、それらに関係無く日本に開戦を選択させるべく仕向けた、アメリカの挑発である。

東京裁判でのパール判事の言葉である。

★「アメリカが日本に送ったのと同一の文書を、他国に送れば非力な小国のモナコ公国やルクセンブルク公国でさえ、必ずアメリカに対して武力をもって立ちあがっただろう」。

『窮鼠猫を噛む』である。

勝ち負けを度外視しても開戦を選択せざるを得ない理由こそがまさに『ハル・ノート』である。

★ハル・ノートの『正式名称、合衆国及び日本国間の基礎概略』

開戦前夜、たった12日前の、昭和16年11月26日アメリカ国務長官 コーデル・ハルが日本政府に対して通告してきた文書で、これを読んだ日本国はアメリカからの最後通告と解釈したのは当然である。

★既に当時日本は、アメリカ・イギリス・支那・オランダによる対日経済封鎖により石油・ゴム・といった資源のほとんどを供給停止されていた為に、南方進出を真剣に考えていた。

~東南アジアの国々はほとんど欧米の植民地である~

その国々を独立させ対等貿易を行えば、日本に活き残る道はあった。

その為には、アジアから欧米の植民地支配を排除せねばならないが、欧米と開戦できる国力は無い。

そんな状況下にありながらも日本は、日米開戦を回避すべくぎりぎりの条件を提示して、日米交渉の妥結を願った。

日本政府は、秘密裏でオランダ政府と、南方資源と呼ばれた、ボルネオ、セレベスのロイアル・ダッチ・シェル産の石油の販売の交渉をした。だが、米英に遠慮したオランダは、首を立てには振らない。

★ハル・ノートの名前は聞きても全文を読んだ方は少ない、と思うので全文を公開する。

決裂に備え(甲)(乙)の二案も用意している。

その条件「甲案」とは

1・ 日支(日本と支那)に和平が成立した暁には支那に展開している日本軍を2年以内に撤兵させる。

2・ シナ事変(日中戦争)が解決した暁には「仏印」(フランス領インドシナ)に駐留している兵を撤兵させる。

3・ 通商無差別待遇(自由貿易)が全世界に適用されるなら、太平洋全域とシナに対してもこれを認める。

4・ 日独伊三国同盟への干渉は認めない

更に「甲案」での交渉決裂に備えて日米戦争勃発を未然に防ぐ為の暫定協定案として「乙案」も用意してあった。

乙案は下記の内容である。

1・ 欄印(オランダ領インド=現インドネシア)での物資獲得が保障されアメリカが在米日本資産の凍結を解除し石油の対日供給を約束した暁には南部仏印から撤兵する

2・ 更にシナ事変が解決した暁には仏印全土から撤兵する。

要するに日本に対する経済封鎖が解除され、石油などの資源が供給されれば南方に進出する必要性は無くなる。

★それと引き換えに、日本も全面撤退に応じるという内容である。

この事については、駐日大使ロバート・クレーギーが帰国後政府に提出した報告書で「日本にとって最大の問題は南方進出では無く、耐え難くなりゆく経済封鎖を取り除く事だった。と書かれており日本の南方進出が『領土的野心』等では無かった事を証明している。

★東京裁判で、アメリカ人のブレークニー氏も、「日本の真に重大な譲歩は甲案であり、甲案において日本の譲歩は極限に達した」と言っている。

日本側は対米交渉において、「これ以上は応じられない」、譲歩を示したと言う事である。

しかしそれに対しアメリカは11月7日に「甲案」、11月20日に「乙案」をも拒絶し11月26日(12月8日)の一ヶ月前に、日本が到底受け入れる事の出来ない「ハル・ノート」が提出された。

事実上の『最後通告』(決闘の申し込)である。

~ハル・ノートは以下(乙)案の文書である~

1・ 日本軍の支那、仏印からの無条件撤退

2・ 支那における重慶政府(蒋介石政権)以外の政府、政権の否定(日本が支援する南京国民政府の否定

3・ 日独伊三国同盟の死文化(同盟を一方的に解消)

★日本に対し大陸における権益を全て放棄し、明治維新前の日本に戻れと言う事である。

江戸時代アメリカに武力で開国を強制的にせまられて以来、欧米列強に揉まれながらも日本は血の滲む努力の末やっと対等になりつつあるところで『全てを放棄しろ!』である。

こんな訳の解からぬ条件を突き付けながらも、経済封鎖の解除には一言も触れて無い所などは、さすがは「国際紛争挑発国家」アメリカである。

★日本は生存権を賭けて、日米開戦の道を選択したと言うより、開戦という選択を取らされたのである。

★資源・物資・大陸での正当な権益・アメリカにある日本の資産・これらを放棄しろと言う事は『死ね』と言うのに等しい事である。

アメリカ流の屁理屈で言わせてもらえば、日本の選択した『開戦』という道は自衛手段であり日本には一切の戦争責任は無いと言える。

★一部の評論家ではこんな言っている。

常に対象国を挑発し、事の責任をなすりつけるやり方は、最近中国との間で起きている。

中国の嫌がることを徹底的にやり、頭にきた中国がアメリカ国債をバカバカ売却する。

大量にアメリカ国債が売られるとドルが暴落する。

ドルが地に落ちればアメリカはデフォルトする。

その責任の全てを中国になすりつけて、自分は被害者を装い、まんまと借金を踏み倒す。

だが、アメリカが、デフオルトをするなんて絶対にあり得ない。

~日本は金が余って運用先に苦労をしている~

日本の金融業界に資金は余って、運用先に困っている。 

アメリカは消費が多過ぎ、貯蓄は少ない。国債を購入してくれる先を探しているので、旨くやれば「ウイン・ウイン」(両方よし)の関係ができそうである。

★事実、戦前の日米の貿易収支は良好でであった。それで欧州戦線に参戦したい米国政府は苦慮していたのである。

しかし、チャーチル首相の、対独戦への参戦要求を断りきれず、何が何でも日本が、戦争を仕掛ける以外に道がない、

理屈に合も合わない、『ハル・ノート』を、しかもぎりぎりの期限で突き付けたのである。

★いかにもアメリカのしそうな事である。

~するとこんな疑いもある~

★東条英機は処刑されていないのでは?

★敗戦後東条英機は処刑されたことになっているが、ヒトラー同様私は生きていたのではないかと思う。

うまく説明できないが、東条の二男は三菱重工の社長になっている。

三菱財閥と天皇家の関係、昭和天皇と東条の関係を考えると、東条を処刑するとは考えられないのだ。

★処刑後、東条の遺体は家族のもとには帰っておらず、航空機で太平洋に散骨したことになっている。等は限りなく怪しい。

グアム、サイパン、ハワイ、もしくは南米のどこかの片田舎でひっそりと暮らしていたのではないかと思えてならない。

~最後に東条の処刑前の手記がありますのでご紹介する~

「英米諸国人に告げる」

今や諸君は勝者である。我が邦は敗者である。

この深刻な事実は私も固より、これを認めるにやぶさかではない。

★しかし、諸君の勝利は力による勝利であって、正理公道による勝利ではない。

私は今ここに、諸君に向かって事実を列挙していく時間はない。

しかし諸君がもし、虚心坦懐で公平な眼差しをもって最近の歴史的推移を観察するなら、その思い半ばに過ぎるものがあるのではないだろうか。

我等はただ微力であったために、正理公道を蹂躙されたのであると痛嘆するだけである。

★いかに戦争は手段を選ばないものであるといっても、原子爆弾を使用して無辜の老若男女数万人もしくは数十万人を一挙に殺戮するようなことを敢えて行ったことに対して、あまりにも暴虐非道であると言わなければならない。

もし諸般の行いを最後に終えることがなければ、世界はさらに第三、第四、第五といった世界戦争を引き起こし、人類を絶滅に至らしめることなければ止むことがなくなるであろう。

諸君はすべからく一大猛省し、自らを顧みて天地の大道に恥じることないよう努めよ。

「日本同胞国民諸君」

今はただ、承詔必謹する〔伴注:終戦の詔を何があっても大切に受け止める〕だけである。私も何も言う言葉がない。

★ただ、大東亜戦争は彼らが挑発したものであり、私は国家の生存と国民の自衛のため、止むを得ず受けてたっただけのことである。

★この経緯は昭和十六年十二月八日の宣戦の大詔に特筆大書されているとおりであり、太陽の輝きのように明白である。

ゆえにもし、世界の世論が、戦争責任者を追及しようとするならば、その責任者は我が国にいるのではなく彼の国にいるということは、彼の国の人間の中にもそのように明言する者がいるとおりである。

不幸にして我が国は力不足のために彼の国に敗けたけれども、正理公議は厳として我が国にあるということは動かすことのできないことである。

力の強弱を、正邪善悪の基準にしては絶対にいけない。

人が多ければ天に勝ち、天が定まれば人を破るということは、天道の法則である。

諸君にあっては、大国民であるという誇りを持ち、天が定まる日を待ちつづけていただきたい。

★日本は神国である。永久不滅の国家である。

皇祖皇宗の神霊は畏れ多くも我々を照らし出して見ておられるのである。

諸君、願わくば、自暴自棄となることなく、失望落胆することなく、皇国の命運を確信し、精進努力することによってこの一大困難を克服し、もって天日復明の時が来ることを待たれんことを。

戦時経済の整わぬ日本の経済

★開戦前のハル・ノートを突き付けられた時には日本の石油備蓄は三ヶ月分しかなかった。しかし、中立国であった、メキシコ油田から買いつけてあった。

しかし、アメリカが、パナマ運河を封鎖し通さない。

メキシコ側も、「売ったから日本のものだ、でも、「お隣サンが煩くってね」。と中な積み出しの協力をしない。

★アメリカの監視の眼を盗み、パナマ運河の封鎖を突破して、幾隻かのタンカーが日本に到着し、六ヶ月分となった。 

この三ヶ月分の虎の子の石油で、アメリカ相手の開戦ができると喜んだ。我が方は石油資源が欲しくて始めた戦である。

~『石油資源が手に入った現在、我が国に領土的野心はない。で講和の申し入れをしろ!』、

等は酷であろうか?

あまりの快進撃の成功で、目先が狂った、と、しか言いようがない。

★しかし、日露戦争を指揮した明治の将軍達は、前線にいながら国債の売れ行きを心配し、売れ行きがよければ戦費ができた、と安心して戦争をしたそうである。

~戦は勝っても補給戦の延びきった日本~

★この緒戦の参ヶ月の快進撃は予想を超えた、日本の連戦連勝の快進撃を続けた日本軍だが、赤道を越えてガダルカナルまで攻め込んだ頃には、延びきって武器、弾薬、食糧の補給は限界に達した。

国力の差(生産力は日本の十倍と措定する)は如何ともし難く、延びきった補給が絶たれ、多くの兵士は銃弾に当たって死ぬのではなく、食糧の補給は途絶え、餓死に敗退である。 史上まれに見る悲劇であった。

★何時の事かは忘れたが、産経新聞で『遠すぎた島』というガダルカナル戦役の戦記物の連載記事があった。 その中の一節を紹介する。

『ガダルカナル戦の戦場整備をする中で、日本軍の戦闘意欲を調べる為に、戦死した日本軍の若手将校の持ち物を調べた。

手帳に書かれた遺書は、奥さん宛てで、「出征する時に、生きて帰る事は考えていない。留守の事は妻や親に「後事を託したので心配はない」。

ただ、妻に頼みたのは、やがて子供は成人して軍人になる、と言った時に、海軍か空軍に行かせてくれ。

戦場で弾に当って死ぬのは覚悟の上。この戦いは飢えて死ぬ。餓死である。

こんな惨めな死に方を子供にさせたくはない」。調べた遺書は殆ど同じであった、そうである。

~敗戦への道を滑り落ちる日本~

★続く、ミッドウェイ・海戦で虎の子の空母機動部隊の多くを失った。 

失った空母の艦載機は、帰る母艦を亡くし、ミッドウエイの海に落ちるより、道連れにせんと、体当たりをする獲物を探す、彼等末路は涙なくしては語れない。 

空母と歴戦のゼロ戦と、パイロットを失った日本海軍は、坂道を転がるように敗戦へと続いた。

★それでも、当時のマスコミは、朝日新聞を始め、全ての・新聞は「筆を揃えて、戦果を称えて、大日本帝国の弥栄を称えた」。

★朝日新社に保存版があれか調べて欲しい。

~『マスコミも少しは反省しろ!』~

『反省は猿でもする』、

だが、日本のマスコミはマッカサ―に洗脳され、マスコミ、野党は、今に至ってもマッカサ―史観を捨てきれないで、集団的自衛権まで否定する野党にマスコミである。

1941年12月8日に日本が戦線布告したのは『米、英』の二ケ国である。

何故か?サンフラン講和条約に調印したのは50ケ国である。

★だが、戦争に負けたのはアメリカの一国だけである。

~英、仏、蘭は、開戦三月で戦闘力を亡くした、二度と奪還はできず完敗であった~

アメリカだけが、最初の一撃で、ハワイの東洋艦隊は全滅、フリッピン・バターン半島要塞に籠った数万の兵士は捕虜となったが、総司令官のマッカーサーは妻子を連れ、オーストラリアの米軍基地に脱出している。

★脱出したマカーサーサーは、オーストラリアの米軍基地で、戦力を整い反攻作戦を準備する。

日本の開戦準備は?

★開戦前、「我に鍛えられた精鋭4000機あり」、豪語していた。

当時のアメリカの戦力も大差はなかった。

★しかし、当時のアメリカは民間パイロットが10万人もいた、と聞く。

これが志願兵として参戦したのだ。戦闘機パイロットが一気に10万人増えたのである。

4000対10万の数字は、殆ど無限大とも言える数字だと言ってよい。 

工業力の差で、流作業で大量生産された航空機は、続々と戦線に送られるのだ。

それに搭乗して10万人志願兵のパイロットがあとに続いて反撃がはじまった。

★所詮、経済力の差はGDPの正式統計では、約四倍であるが、実質は日本の10倍くらいだったと、思われる。

沈めた軍艦、落として飛行機より、開戦後に新たに造られた飛行機、軍艦のほうが遥かに多かった。

★当時流行った軍歌に、「♪追~ど♪祓えど、数~増す敵機♪・・・」。と歌っていた。

正のゼロ戦が「撃ち落としても、撃ち落としても」、敵グラマンは次々と湧いてくるように現れてくる。

~国力の差は如何ともし難い~

★百田尚樹氏の『永遠のゼロ』の出てくる、ラバウル航空隊の零戦が空中戦で撃墜したパイロットが落下傘で降下中に、ゼロのパイロットが機銃掃射で撃ち殺すのを見た指揮官が、

「戦闘力の無くなった奴は、武士の情けだ!」「見逃してやれ!」と叱った。

だが、撃墜されたパイロットは、海中で待機した潜水艦に、海上で救われ、明日、予備のグラマンを乗り換え、味方の『零』を攻撃してくるんです」。

「今、殺して置かねば、明日味方のパイロットが殺されるんです」。と、平然と言っている。

筆者の見解

日本の昭和天皇陛下は世界戦史に例を見ない指導者であり、日本社会の特徴である。

★再度言う。

第一次世界大戦に敗れたドイツを見ろ!

ドイツ帝国の国王は、人民による、敗戦の責任を追及され、ドイツ国内にいたたまれず、オランダに亡命、かの地で死んで墓さえもない、末路である。

この日独の現在を比較して見ろ! 

戦争責任は、ヒットラーひとりに押し付け、『ドイツ国民は被害者である』、の態度だ。

★だが、反する日本は?!

日本は、天皇陛下を筆頭に、国民の全てが「多大な迷惑をかけて申し訳ない」、と謝罪し回っているのだ。

それに悪乗りして、高額の金をとる『売春婦』を『性奴隷』と言って、何時までも謝罪と賠償を求めてくる。

★私はアジア人の方が、喧嘩をしても、お互いに謝れば、『過去を「水に流して仲良くできる民族だ」、と思っていたが、中韓のしつこさは異常である』。

★寧ろ、イギリス、フランス、オランダ等の方が、アジアを植民地にして繁栄していたが、日本のアジア民族を大東亜戦争で独立させ、彼等の利権を取り上げたのだ。

違法行為と言ども、植民地経営の繁栄を、取り上げたのだから恨んでも当然だ。

★それがさばさばとして、旧植民地をマーケットとして貿易を行ない、経済発展をしている。

★中国の古代の人、孫子の兵法では、『近攻、遠交』(近くを攻め、遠くと交わる)と、教えている。

日本とチャイナは『一衣帯水』と言って玄界灘を挟むだけの御近所様である。

韓国に至っては、その間に挟まれた少国である。

明治の偉人・福沢諭吉の『脱亜論』の慧眼には敬意を表したい。

~天皇陛下を戦犯にし、処刑したいチャイナと韓国~

私が想像するのに『識者と称する方々は、韓国に阿って、戦後処理の謝罪はドイツを見習え、と叫ぶ。チャイナの歴史は5000年と言うが、五千年国家が続いたのではない。

五千年前かひとが住んでいた、と事で、歴史を辿って見ても王朝は300年続いた『王朝』は、ない。シナ大陸の王朝で「最澄が『唐』」の290年である・・・・・・中略

★多くの王朝は暴君が現れ、悪政を牽くか、官僚の腐敗が始まって、誰かに滅ばされ、滅ばして者が、皇帝となる、の繰り返しである。

~朝鮮も然り~

聖君と呼ばれた名君等は、有っても珍しい。

対する日本の天皇家は二千年・125代も続いているのが、羨ましくて、何とかケチを付け、貶めたいのが、本音と想像する。

それで、『天皇陛下の戦争責任を追及にて、処刑したい!』のが、本音と推察する。

大航海時代は植民獲得競争の幕開け

★オランダの風車

今では『牧歌的風景』の代表見たいな長閑なオランダの風景も、当時は先端技術の風力を動力として大型製材機を回し、人力では扱えない巨木を製材し、大型船を製造、大航海時代に突入し、且つ貢献した。

★筆者は一応、ヨーロッパ文明(地中海の沿岸諸国)に始まって、大航海時代は植民地獲得競争の始まりでもある。

以後どのようしてアジア諸国が植民地にされたか検証してみたい。

★日本で大航海時代の始まり、と言われているのは、ポルトガルのエリチン王子がアフリカの沿岸沿いに南下して、海の果てを見定め、その地を回って太平洋に出て、東回りでイン度に着くのである。

この大航海時代の口火を切ったのが、ポルトガルのエリチン王子であり、続いたのがスペインである。

1415年、ポルトガル船が種子島に漂着する。(鉄砲を持ち込んだ)少し遅れてザビエルが日本に付いた。

各地の大名が鉄砲生産の技実を競い合い、これによって日本の近代化の始まりであった。

★一方の日本国内では1567年(永禄10年9月)岐阜城を築城「天下不武」を宣言。

耶蘇の布教を許可、西洋文化、技術の取り入れを促進する。

また、ザビエルが日本に付いた日は1549年4月15日。織田信長が耶蘇の布教を許し、西洋文化、技術の取り入れ日本の近代化を促進させた。

信長の『天下不武』を宣言、と並行して日本の近代化を促進したのである。

~大東亜戦(黄色人種と白人と戦いあった)~

日本名「大東亜戦争」で、日本はアメリカに敗れて占領され、占領軍の命によって「太平洋戦争」と命名された。

そして日本は明治維新以降での近代化により国力が増強し、「その国力を使って平和に暮らす周辺諸国を侵略し、領土を広げた悪い国だ」と決めつけた。

★隣の韓国と中華人民共和国は、戦争終結以来70年以上経てもなお、過去の侵略に対し「謝罪をしろ!」、「補償をしろ!」と言い続けている。

しかし、朝鮮民族は日本人として連合国と戦っている。

★1949年に創立した国家が1945年終結した戦争にどうやって参戦したのか不思議である。

★一方でこの大戦は、アジア諸国を植民地支配から解放と独立をもたらし、中、韓両国以外の全ての国が感謝している。

これら独立した国家の経済は発展し、元・宗主国にも市場を提供し、世界の経済発展にも貢献している。

「本当に日本は、平和に暮らす隣国をただ単に侵略した悪い国家だったのか」を検証してみたい。

~歴史に「IF(もし)」はないというが~

「もし」を取りいれ、仮説で歴史を創ってみると世界史に新たな発見が想像される。

★一般に太平洋戦争(日本名・大東亜戦争)は昭和16年12月8日未明、

「本八日未明帝国陸海軍部隊は西太平洋上に置いて米国及び英国と戦闘状態に入れり」。 

この発表の数時間前に日本軍は真珠湾を奇襲して、アメリカ東洋艦隊に壊滅的打撃を与えた狡い国家と断定されている。

これに対し、日本外務省は「当日は日曜日で役所が休みだった」等の言い訳をしている。だが、各種資料には「アメリカは建国以来、約200回の戦争のうち、宣戦布告したのはたった3回だけ」と書かれている。

即ちアメリカにとっては、戦線布告をしない奇襲攻撃が戦争の常道であり、アメリカの言う「日本の騙し打ち」というのは間違っている。

~当時の世界の情勢を俯瞰して見よう~

開戦当時、アジア全域はおろか、白人の住む国以外は全て白人(地中海の沿岸諸国)の国の植民地であり、彼等有色人種は白人の奴隷であった。

アジア諸国の西端インドは、紀元前2600年頃から前1800年にインダス川の流域に栄えたインダス文明として栄えた、古代国家であった。

1498年にヴァスコ・ダ・ガマがカリカット(コーリコード)へ来訪し、1509年にディーウ沖海戦でオスマン帝国からディーウを占領し、1511年にマラッカ王国を占領してポルトガル領マラッカを要塞化することに成功。

ポルトガルはインド洋の制海権を得た。  

このことを契機に、ポルトガル海上帝国は沿岸部ゴアに拠点を置くポルトガル領インド(1510年-1961年)を築いた。1620年、デンマーク東インド会社がトランケバルにデンマーク領インド(1620年 - 1869年)を獲得。

1623年のインドネシアで起きたアンボイナ事件でイギリスはオランダに敗れ、東南アジアでの貿易拠点と制海権を失い、アジアで他の貿易先を探っていた。

★ビルマ(現財のミャンマー)は、1044年、南詔支配下にあったビルマ族がエーヤーワディー平原へ侵入してパガン王朝を樹立した。パガンは最初小さな城市であった。

~近代の東アジアの勢力図~

マレーシア、シンガポールは『英国領』。

マレーシアと、シンガポールはジョホウル水道と呼ばれる狭い海峡を挟んだ都市国家がシンガポールであった。

マレー半島は、大戦中はイギリス領である。

シンガポールにはイギリスのアジア征服の拠点、シンガポール軍港があった。

ここでマレーシアの過去を簡単に振り返って見たい。

★インドシナ半島のベトナム、ラオス,カンボジアは、『フランス領』。

『仏領インドシナ』と呼ばれ、インドネシア(南洋諸島)は『オランダ領』で『蘭印』と呼ばれた。

そして、フィリピンは『米西戦争』と呼ばれたスペイン領キーウバーの独立運動に介入、勝利し、キュウーバ―は反米を掲げて独立、フリピンはアメリカ領となった。

★大東亜戦争が始まり、フィリピンだけが「この戦争でアメリカに協力すれば、勝利した後に独立国させる」とアメリカ政府の約束を取り付けたのである。

即ち、アジア諸国の中で独立国は日本とタイ国だけであった。

そのタイ王朝も英仏の領土争いにおける緩衝地帯としての価値で存在できたのであり、本当の意味での独立国は日本ただ一国であった。

★中華人民共和国や韓国が何と言おうが、日本人の中にも、これを否定する輩もいるが、誰が何と言っても、歴史の真実である。

白人諸国の繁栄を表す詩

白人の社会を称えた詩「春の朝」 

時は春、 日は朝(あした)、 朝(あした)は七時、

片岡に露みちて、揚雲雀(あげひばり)なのりいで、

蝸牛(かたつむり)枝に這い、 神、そらにしろしめす。

すべて世は事もなし。

神様は天にいます──天下泰平、天下泰平!

*  *  *  *  *

神の仕技を称えた詩で、イギリスの詩人ロバート・ブラウニング(1812~1889年)が、神様は天にいます──天下泰平、天下泰平!と神の仕技を称えた詩である。

言わずと知れたこの神とは、白人の信仰する、カトリックの神(キリスト)のことであり、天下泰平とはその神の下での長閑な平和である。

★当時、イギリスの植民地は世界の四割を占め、イギリスは日の沈まない国と言われていた。

地中海周辺の白人国家や、英国の王政や迫害を嫌った人々は、メイフラワー号に乗ってイギリスを脱出し、大西洋を渡って到達したのがアメリカである。

同乗していた200人がメイフラワー契約を結んで、出来た国家が、現在のアメリカ合衆国である。

★彼等は、先住民のインディアンに土地を所有する概念が無い、事を利用してアメリカ大陸の土地を専有し、先住民のインディアンを虐殺している。 

今では生き乗った少数のインディアンが保護区で細々と生きている。

★アフリカをはじめ、アラブ諸国やアジア全土を植民地とし、繁栄の限りをつくしていたのである。

大東亜戦争はアジア植民地解放の旗印を掲げ、日米が戦った戦争である。

アメリカ主導の連合国は、植民地の既特権を守る以外のなにものではない。

豊臣秀吉の功績

再度言う。

★豊臣秀吉が、キリシタンがスペインの世界征服の野望の先兵だと気が付き、キリシタンの布教を禁止。

従わぬ宣教師は磔の極刑に処し、残りは追放した。怒ったスペインは本国からの応援を得て、日本を占領しようとしたが、戦国時代に鍛えられた武士団の戦闘力、武器(鉄砲)の保有・生産力は世界一で、付け入る隙は何処にもなかったため、日本への侵攻を諦めたという。

★つまり、鎖国をして日本独特の文化が繁栄したのは、世界最強と言われた戦闘力を持つ軍隊があって、初めて可能であったという事である。

この事実を、田島陽子氏、福島瑞穂氏、鳥越俊太郎氏等の似非平和主義者だということをよくよく理解すべきである。

★260年後、アジア諸国は欧米の植民地になったが、ただ一国、植民地とならなかった日本に対し、アメリカは先ず交易とアメリカ捕鯨船の基地を求め、ペリー提督率いる4隻の黒船を江戸近郊の浦賀に来航させた。

『鎖国は国是』と断る幕府に、大砲を撃ちこみ、脅しを掛けた。

旗本八万騎と呼ばれ、世界最強の武士団は、関ケ原合戦当時の武器しか持たず、260年の平和により、戦を忘れた幕府の官僚となっていた。

★たった黒船4隻に乗っていたアメリカ陸戦隊を追い返す術はなく、結果として不平等条約の見本のような日米通商条約を結んだのであった。

★隣の大国清朝にも、先ず英国が通商を求めて来航。

清朝はお茶が特産で、イギリス人は紅茶を好むため、お茶の買い付けで銀が流失するのアヘン貿易を解消せんと、インドの麻から阿片を製造させ、インドの阿片を買い付け、清朝に売る三角貿易を考案、実施した。

★その結果、清朝には阿片の中毒患者が町に溢れ悲惨な常態になった。

★清朝が阿片の吸引を禁止した後も、イギリスの密貿易で売り続けた。

怒った清朝の役人がアヘンを没収、焼却すると、イギリスは損害賠償を求めて宣戦布告。これが世に言う『アヘン戦争』である。

★産業革命で近代化した武器を装備のイギリス軍に、中世装備の清軍は完敗。

莫大な賠償金と各種権益を毟り取られ、争いに便乗した列強に権益を奪われ半植民地の状態になった。

この情報は日本にも伝わり、明治維新を促進する一端になったという見方もある。

~武士の潰した武士の社会~

★明治維新で300諸侯が構成する幕藩体制は変貌、廃藩置県により藩主らは藩籍を返上し、朝廷から県知事に任命された。

配下の武士は断髪し廃刀の令で、武士の身分と地位を奪われ、幾ばくかの退職金を貰った武士に変わって、戦争は国民皆兵の鎮台兵となる。

討幕の先陣を切って戦った薩摩の島津家、長州の毛利家らの藩主は、将軍職任命の沙汰が下りることを期待して、待っていた。

しかし、官位は従一位の華族であるが、任命されたのは一地方の知事である。

★明治維新の完成後に薩摩の島津久光が、「西郷、大久保に騙された、」と,語っていた、と聞く。

★討幕を先導した薩摩、長州の下級武士も、脱藩して浪人となり、討幕に暗躍した。

ある時期は幕府の捕吏、ある時は新撰組の暗殺から逃げまわり、命を掛けて薩長同盟を結成させ、討幕を成功させ、新政府(明治政府)創り上げたのだが、武士の地位と藩からの禄は失っている。

★明治維新の成立の要の薩摩の西郷隆盛は、新政府の構想で、同志として活躍した大久保利光と意見が合わず、新政府を去って、故郷の鹿児島で私学館を創設し、表面上は隠居した。

その後、武士の地位を失った不満武士、私学館の生徒、二万に担がれ、「新政府に問いた事がある、」と、討幕戦に参加し功績のあった若者と共に新政府のある東京を目指した。

★新政府の責任者の大久保は、明治政府に対する反乱と位地付け、谷干城を主将に、編成半ばの鎮台兵を率いが鎮圧にあったが、薩摩軍の勢いは強く、熊本城に籠って籠城する。

熊本城、守備の要の田原坂の激戦で、白刃を振るって切り込む薩軍を恐れ、急編成の鎮台兵は逃げ散った。

困った政府軍は、会津戦争を生き残った武士の内、剣の達人がポリス(警察官)になっているのを募集し、『抜刀隊』を組織して対抗させた。

★彼等は『戊辰の恨み』と抜刀して薩軍に切り込み、勝利に導いた。

★会津戦争の10年後に官軍、賊軍が逆転したのである。

田原坂で敗れた薩軍は、鹿児島の城山に逃れ、桜島の見える地で、西郷隆盛以下は切腹、西南戦争は一年で終結する。

★勝った大久保利通も『禄を奪われた不平武士』に暗殺され、非業の死を遂げている。

★この間の事情は彼等の心情を思えば涙無くして書くことはできない。

 

明治維新といううねりの中で、個人的野心を満たすために働いた輩もいたかも知れないが、アヘン戦争に敗れた清国の状態を見て、外国に侵略され、植民地にされる悲劇を防ごうと命を賭けた者は多かったことだろう。

そのような先人の努力が、今日の日本の繁栄に繋がっていると言える。

★天皇陛下親政の立憲君主国家に生まれ変わり、殖産振興を図り、富国強兵が進められた。

日本は、清朝、李氏朝鮮にも、日本の明治維新を見習って、近代化と『富国強兵』を促し、共同で欧米による侵略を防ごうと働き掛けた。

だが、滅亡寸前でも大国意識の抜けない清朝の中華意識は『荻南蛮東夷西戎』で、『東夷』の「野蛮人の言う事等聞けるか!」であった。

★あまつさえ、朝鮮は『日本は明治維新の改革で近代国家に生まれ変わった』。

との挨拶と、改めて『国交の樹立を求める使者を送った』。

~近代化の理解できないチャイナ、朝鮮~

★その回答が「朝鮮国王に謁見したければ、西洋かの猿真似した洋装を、日本の正式な衣裳、『衣冠束帯』に改め、髷(まげ)を結って、出なせ!」と追い返した。 

李氏朝鮮は宗主国清の顔色を伺い、また目の前の敵であるロシアの思惑を気にし、一向に要領を得ない。

★明治の開明思想家『福沢諭吉』は、辛亥革命に敗れた孫文以下の同志が亡命してきたのを、生活の面倒から革命の軍資金の面倒を見る等して、明治維新の成功例を教えた。

如何に口説いても、援助しても改革をしない、清国、朝鮮に愛想を尽かした、福沢諭吉は、

「日本はアジアの悪友と手を切って、欧州と友達になる」、の『脱亜論』を発表した、慧眼は尊敬に値する。

★果ては滅亡寸前の清国が朝鮮に出兵、占領。

朝鮮は清国の属領で独立国ではないと宣言する。

朝鮮は独立国であると清国に認めさせる戦争が日清戦争である。

日本が日清戦争に勝利し、李氏朝鮮は大韓民国として独立を果した。

独立はしたものの、朝鮮民族は内紛に明け暮れて国論の統一は進まず、一貫した外交ができずに結局、日本の保護領となった。 

★日韓併合は日本の武力でしたものではない

1909年11月、伊藤博文暗殺の39日後に、韓国最大政党「一進会」が「韓日合邦を要求する声明書」を上奏。

以下が、日韓併合を望んだ韓国最大の政党『一進会』の声明文である。

~声明分~

日本は日清戦争で莫大な費用と、多数の人命を費やし韓国を独立させてくれた。

また日露戦争では日本の損害は甲午(日清戦争)の役の二十倍を出しながらも、韓国がロシアの口に飲み込まれ、肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。

韓国はこれに感謝もせず、あちこちの国(清国)にすがり、こっちの国(ロシア)に縋って、外交権が奪われ、保護条約に至ったのは、我々(朝鮮人自身)が招いたのである。

第三次日韓協約(丁未条約)、ハーグ密使事件も我々が招いたのである。

今後どのような危険が訪れるかも分からないが、これも我々が招いたことである。

★我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか。

~つまり、日韓併合を望んだのは韓国側なのである~

日本政府は「一進会」の要望を真摯に受け止め、列強と相談しました。日本の負担が増えるのに、列強は日本が韓国を『併合する』ことを承諾しました。

1910年(明治43年)日韓併合条約締結され日本国となった。

韓国の皆様、在日朝鮮人の皆様、韓国併合は武力による征服、植民地化だったのではありません。

韓国側にとって不都合な真実ですが、この真実を韓国の国民に教えてください。

~以上は朝鮮の最大政党の『一心会』の声明の全文である~

日露戦争の近因

★ロシアは不凍港を求め、満州を越え朝鮮半島への進出を狙った。当時、イギリスは阿片戦争に勝利したもの、戦後処理に難航していた。

日本に到達したばかりのアメリカは、イギリスと同様にロシアの東進を何としてでも抑えたかった。

特にイギリスは、ロシアの東進を抑える防波堤の役目を日本に期待、日本軍に情報を提供、海軍の増強に援助する事となった。

★ロシアはユーラシア大陸中部の農業国で、長らくモンゴル帝国に支配されていたが、モンゴルが衰退し引き上げると、イワン大帝とリートル大帝の両名君が現れ、近代的軍隊を創設。

ヨーロッパの覇権争いに参加し始める。しかし、この覇権争いは英仏に遅れを取っていたため、ヨーロッパを諦めて、シベリアを東に進み、満州に到達した。

★満州(当時の満州は人の住まない地域「ノー・マン・ランド」と呼ばれていた)には住民は少なく、未開の土地であったが、清朝発祥の徐均族の発祥の地。即ち清朝の母国である。

清国から満州の権益を手にしたロシアはシベリア鉄道の完成を急いだ。

北の大国ロシアは、世界一の陸軍国で、同じ世界最強のバルチック艦隊を持っていたが、ロシアは冬になると港は凍って折角の艦隊も役にたたない。

どうしても凍らない港、不凍港が欲しくてアジアを南下してくる。 

日露戦争の準備  

簡単に言えば、イギリスは「ロシアが満州に来た!次は朝鮮に来るぞ」と日本を脅した。

「強いロシアが攻めてきたら、お前も困るだろう。海軍の増強を手助けするから日本も戦え!」と。

満州を制圧したロシアが朝鮮半島へ侵攻すれば、次は日本だとの危機感は日本も同じで、この話に乗った。

軍艦を無償供与ではく、高額な金を払って買う。イギリスという商売のあくどさには呆れるばかりである。

1899年(明治32年)1月24日 バロー・イン・ファーネス造船所で起工。

1900年(明治33年)11月8日進水。

1902年(明治35年)1月15日から20日まで公試が行われ、3月1日サウサンプトンで日本海軍への引渡し式が行われた。

その費用は、建造費用は船体が88万ポンド、兵器が32万ポンドであった。

(当時の円換算は後日調べて報告する)

3月13日、イギリス、プリマスを出港しスエズ運河経由で5月18日横須賀に到着した。造船総監は黒部広生。

初代艦長は早崎源吾大佐。横須賀で整備後6月23日に出港し、7月17日本籍港である舞鶴に到着した。

当時の日本の財政事情は困窮を極め、この膨大な戦費を外債で資金調達する苦労は大事業であった。

この外債の膨大な金利は彼等の手に入ったが、後の第一次世界大戦の好景気で国債は償還している。

★奉天の会戦

ロシアの陸軍には世界最強と言われるコザック騎兵隊がある。対する我が軍の兵士は260年の泰平で馬に乗れない武士も多かった、という事は国民皆兵で動員された兵士も馬などには乗れなかった。

明治の近代化で慌てて騎兵の育成に係ったが、馬もオーストラリアから輸入し育てたもので、如何にも急ごしらえで、コザックと比べ見劣りのするものだった。

★そこで日本騎兵の創業者・秋山好古は逆転の発想で、敵・コザックに遭遇したら馬を乗り捨て、一斉射撃で馬毎なぎ倒す作戦を考えた。当時の陸軍が『魔の兵器』と呼んだ機関銃を大量に買い付け、騎兵の標準兵器とした。

これが大成功でコザックと遭遇した日本騎兵隊が馬を捨て、機関銃の一斉射撃の体勢を取ると、コザックは騎兵の起動力を使って慌てて逃げて出し、ロシア自慢のコザック騎兵隊は奉天の会戦に姿を見せなかった。 

★しかし、秋山将軍はこれに満足せず、騎兵の機動力を利用し満州の荒野を迂回、総勢3千の騎兵を全て敵の裏側から攻めんと、敵の背後を取った。

日本の騎兵隊発見の報告に慌てた敵将・クロバトキンは日本騎兵に退路を断たれると、慌てて総軍撤退の命を出し、捕虜2万を残しての退却という結果となり、日本は大勝利をおさめた。

★黄色人種の日本が白人国家のロシアを破った日露戦争に世界は驚愕。世界初の出来事として有色人種に多大な自信を与え、ロシア革命の遠因となった。

日本海海戦

★1853年に浦賀に来航した黒船を見て驚いた日本人が、たった47年で英国から買ったとは言え、黒船の軍艦どうしの戦いで、当時世界最強と言われたバルチック艦隊を日露戦争で全滅させた(1905年)のだから、日本海軍の操艦技術、射撃技術の習得がいかに早かったことか、欧米列強が日本を恐れるのも無理はない。

★世界戦史に類を見ないほどの日本の圧勝であった。

★遥々バルト海から回送してきたバルチック艦隊は、隻数ではほぼ同数だが、トン数火砲の数は圧倒的に優勢であるにもかかわらず全滅、辛うじて逃げた一隻の巡洋艦は、ウラジオストック軍港に逃げ帰った。

★旗艦三笠には37発もの砲弾が命中し100名あまりの戦死者を出し、舷側に大穴が空いたが沈没は免れた。

水雷艇3隻を失う被害もあったが一隻の戦艦も失っていない、日本の大勝利であった。

★日本海海戦の主力艦は全て輸入、旗艦三笠は英国製だったが、15年後の1920年(大正9年)には戦艦長門を自国で建艦。

たった15年で世界水準の建艦技術と操艦技術を習得したのも驚きであり、世界が恐れたのも無理はない。

~日露戦争の勝利が米国に恐怖感を与えた~

当時のアメリカのマスコミは、日本軍が当時世界一と言われたロシア陸軍を奉天会戦で破り、同じくバルチック艦隊を日本海海戦で全滅させた事を、賞賛と同時に新たな脅威と感じ、単純なアメリカ人の恐怖心を煽った。

「日本にはバルチック艦隊を殲滅する程の海軍があるが、アメリカはこれに対抗する東洋艦隊は戦艦をもっていない」。

「日本海軍の戦艦に対抗する戦艦は大西洋からパナマ運河を通って来るしかない」と、アメリカのメディアは挙って日米がもし戦えばと報じ危機感を煽った。

筆者の見解

(影の声:アメリカが戦争好きだという噂は当たっているかも知れない)

★これが日露戦争後のアメリカの対日の世論であった。

そこでアメリカは、1924年(大正13年)に『絶対的排日移民法』を定め、日本からの移民を排日し始めた。これが大東亜戦争の遠因であったと信ずる。

★6年前の「絶対的排日移民法」制定より、日本政府はアメリカ国民の意を汲み、日本人の移民を自主規制(紳士協定)するなど日米の融和を図っていた。

しかし、排日の世論は拡大の一途を辿り、働き者の日本人が自力で開墾した農地は所得できない旨の州法が次々と成立する。

一方のヨーロッパからの白人の移民は積極的に受けいれ、黄色人種である日本人を排斥する事は人種差別以外の何物でもない。

★アメリカの対日嫌悪は留まる所を知らず、満州大陸に支出、ブロック経済を何とか乗り切った日本に、1930年(昭和5年)、日本にさらなる難題を持ちかけた。

★A(アメリカ)、B(ブリテン英国)、C(チャイナ)、D(ダッチ、オランダ)が戦略物資(石油、鉄鉱石、ゴム、スズ、鉄屑等)禁輸である。

これは実質的な戦線布告である。蒋介石総統夫人、宋・美齢の暗躍と推定する。

当時の新聞記事に『宋美齢の外交力は10個師団の兵力に匹敵する』と記載されていた。

★黄色人種の日本がシナの利権を手にするのを防ぐため、同じ黄色人種のシナ人と戦わせ、漁夫の利を求めるなど、人種差別に他ならない。

世界を制覇した白人の世界に突然割り込んで、東洋の国、黄色人種の日本人が対等な顔をするのが気に入らない、の一語に尽きる。

~出る杭は打たれる~

排日思想が決定的になったのは、安全保障理事会での日本の最初の提案が『人種差別の撤廃』である。

多数決で承認されかけたこの法案は、アメリカが「こんな重要議題は多数決の安全保障理事会でなく、満場一致で可決する総会で議論するべき」と反対し、あえなく否決となった。

★この結果が第二次世界大戦後にできた「国際連合の安全保障会の常任理事国には拒否権」ができたと推察する。

~これにより日米の対決は決定的になったのである~

★1929年(昭和4年)アメリカの下院議員ホーム氏とスム―トス氏の両氏が、自ら経営に関与している会社の業績アップの為に、ホーム・スム―ト法提出すると発表する。

この法案は外国製品に高額な関税を掛け、外国製品を完全に排除するものである。

こんな保安が通過知れば、世界の貿易は完全にストップするとニューヨーク市場の株価は暴落し、日本も世にいう昭和の大恐慌が勃発し、世界経済は同時に大不況に突入した。

★主要国は自国の経済圏を封鎖し、ブロック経済とする対策を取った。当時、イギリスは『大英帝国』と称し、植民地を含め英国の領土は世界一で、囲い込まれた『スターリング地域』と呼ばれるポンドを通貨とした世界最大の経済圏が生まれた。

アメリカはアメリカ大陸を中心にドル圏、独、仏もそれぞれの経済圏を創って、世界はブロック経済同士の争いとなった。

~日本の経済圏とシナ大陸の実情~

★清朝末期の満州は『ノーマン・ランド』(人の住まない地)と呼ばれた未開の地であったが、その権益は日露戦争に勝利した事で日本のものになっていた。

辛亥革命で滅んだ清朝に替わって、満州の権益を中心に満州国と称する日本の傀儡を創立、経済圏を創ってシナ大陸に進出して行った。

★辛亥革命で清朝が滅んで後のシナ大陸は混乱を極めた。国家の権力はなくなり、各地で駐屯する部隊の将校が兵を連れ脱走、小規模な集団は匪賊となって、山城に籠って収穫期の農村を襲って略奪、女性を強姦、拉致して連れ帰り一村を築き軍閥として地方を支配した。

兵士以外に事務官を持つ様な軍閥は地方政府を制圧し、無力となった地方政府の首長を脅し、占拠した軍閥の将軍が実権を握り、住民に税金を掛け、配下の数万もの兵を養う大軍閥となって地方に君臨した。

中でも有力だった『孫文』等が、革命を起こし、民族の独立を目指したのが辛亥革命(1911~1912)である。

この当たりの事はイギリスの作家・パールバック女子がシナ大陸の農民の生き方、軍閥の生長過程を克明に観察し、『大地』の名で少説にして書き残している。 

何版にもなった出版して、世界各国でベストセラーになっているが、私の高校生時代に図書室に入って来ると争って読んだものだが、最近読み直したかったので図書館に行けあるので、御一読を勧める。

~ハル・ノートと言う名の最後通告~

しかし、真珠湾軍港の奇襲でアメリカ東洋艦隊の主力は撃沈、続けてフィリピンの首都マニラの陥落後、アメリカ兵数万はバター半島要塞に逃げ込む。司令官マッカーサー大将は、家族共々オーストリアの米軍基地に逃亡。部隊を再編成し1年後から反抗作戦を開始する。

★初戦で英領マレー半島の北部のコタバルに敵前上陸した、陸軍部隊は連戦連勝の快進撃で55日の進撃で英国の誇るシンガポール軍港の対岸に到達。猛砲撃を浴びせ、耐えきれずイギリス軍は白旗を掲げて降伏、シンガポールは陥落。

開戦直後の12月10日、イギリスは風雲急を告げるアジア防衛の為に、世界に誇る最新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズと姉妹艦同、レパルスをシンガポール軍港に展開する。しかし、マレー半島沖で日本の航空隊に発見され、数時間の戦闘の結果沈没の憂き目に合う。

英国の名宰相チャーチルが「日本に此れだけの戦力があったのなら、我々はこんな要求(ハル・ノート)をしなかった」とチャーチル回顧録で語ったそうである。

★つまり戦力の誇示は必要不可欠なものである。

現在の北朝鮮が、国民を貧困のどん底で、飢えに苦しませも、核開発をし、大陸間弾道弾の開発を急ぐのも、その延長線上である。

筆者の見解

「強い相手とは喧嘩はしないで逃げる」は世界共通である。オランダ落下傘部隊の奇襲で

油田地帯を放棄、逃げ去った。

初戦は日本の勝利であったので、この時直ぐ停戦に持ち込まなかったのが日本の大失敗である。

★戦前の日本は「我らには鍛え抜かれた精鋭が4千機ある」と豪語したが、ミッドウエイ海戦で失った空母は改装で間に合わせたが、パイロットは訓練時間不足で補充が追い付かない。

対するアメリカの初戦の保有機数は日本と大差はなかったが、民間パイロットはい1万人もいたのだ。

開戦の報を聞くや、彼等らは行列しい、争って飛行隊に志願する。

筆者の独り言。

二度とアメリカと戦争をしたくない。いざとなれば資源を外国に頼らず国内で賄う。

人口は日本の三倍もあり、潜在国力は日本の十倍と言っても過大評価ではない。ならば日米同盟命を結ぶのが一番だと信ずる。

事実、これは『日米安全保障条約』と、なっている。

★アメリカとは宣戦布告の時間がずれたとの意見もあるが、アメリカは建国以来200回も戦争をしたが、宣戦布告を行ったのは、3回だと聞いている。

つまり、宣戦布告なき奇襲作戦は戦争の常道であったのだ。

アメリカのルーズベルト大統領は、他国(主にヨロッパ)の戦争に、巻き込まれアメリカ人の若者が死ぬこと嫌った与論を受け、「もう、絶対にヨーロッパの戦争に関与しない」、の公約で婦人層の票で当選している。

★だが、イギリスのチャーチルが、「ドイツとの戦争に負けそうだ!何とか参戦してイギリスを助けてくれ!」、懇願されているが、ドイツと戦う口実がない。

そこで、チャイナの紹介席に武器、弾薬の援助をして日本と戦わしたが効果はない。

そこでA(米国)B(英国)C(チャイナ)D(オランダ)包囲網を敷き、日本を追い込んだが、中々日本も挑発に乗らない。

★最期に、どうしても日本の飲めない、だけではない、最後通告の、『ハル・ノート』を突き付け、日本を開戦に踏み切らせ、『真珠湾の奇襲』となったのである。

★私が聞いた訳ではないが、チャーチル、ルーズべルトの二人は、「これで参戦の口実ができた、」と、抱き合わんばかりに、電話で喜びあったそうである。

そして開戦、アメリカの東洋艦隊はほぼ全滅、英国自慢の不沈戦艦・プリンス・オブ・ウエルスは、マレー沖を巡視中に、発見され、あえなく撃沈される。

★この虎の子を失ったチャーチルは、『イギリス帝国、始まって以来の損質だ、日本にこんなな力があったのなら、何でABCD包囲網等飲んだのか?』、と言ったそうである。

(チャーチルの回顧録より)事実、大英帝国の命取となって、二度と大英帝国の復活はなく、アヘン戦争で痛めつけたチャイナの、顔色を伺いながら、何とか生き延びているようとしているのが現実である。

★何はともあれ、日米は太平洋を舞台として、死力を尽くし、血みどろになって戦ったのである。

だが、戦が終って「講和条約」が締結されると、お互いに相手の健闘を称え、友情に発展する。

日米は過去を水に流し、友好国として「日米安全保障条約」を結んでいる。

原爆の投下をはじめ、東京大空襲等での民間非戦闘員の虐殺等、戦争中の国際法違反の悪事とは言え、何時までも過去に拘らず、明日に向って前進して行こうではないか。

★これまで考察してきた事実により私がアメリカを憎む気持ちは誰にも劣らない心算だ。しかし、世界の覇権を狙う大国がある限り、アメリカと同盟を組み、世界平和の為に働

く以外に道はないと信ずる。

★何度も言うが、日本の負けたのはアメリカだけである。 

★世界中を相手に戦争したといわれるが、負けたのはアメリカ一国にだけであり、英,蘭、仏は緒戦でノックアウトして、二度と立ち上がれなかった。

筆者の本音は、

★アメリカとだけは戦争をしたくないのが本音かも知れない。

~ヒットラーの遺言~

★ヒットラーは敗戦が決定的になった時、側近にこう語ったという。

「アメリカの資本主義と戦った戦いは、ソ連の参戦により国家社会主義のナチは敗れた。だが、間もなく、共産主義ソ連と資本主義のアメリカの戦争が始まる。

どちらが勝っても次の敵が現れ、戦争が無くなる事はない」。

★私が直接ヒットラーに聞いた筈はないが、各種の書物を読むうちに出会った言葉で、悪の権化と言われた、ヒットラーの言葉では非常に薀蓄のある言葉だと思う。

★事実、米ソ冷戦で世界の覇権を競ったソ連は40年に亘った冷戦もソ連は、アメリカのレーガン大統領の仕掛けた『スター・ウオーズ』作戦の高額な軍事費の堪えきれずに、共産主義の経済が破綻した。

 その後ソ連は『ペレストロイカ』(再構築)運動等で雪崩のように崩壊していった。

結果、「ソビエト社会主義共和国連邦は15の共和国に分解、ロシアはその中での一大国に過ぎない。

しかし、世界一を誇る人口大国のチャイナが、共産主義経済の計画経済を捨て、鄧小平の『豊かになれる者から、豊かになれ』の変則経済で政治は共産党の一党独裁。 

経済は市場経済で、発展するかに見えたが、世界の下請け工場の如く、低賃金で稼ぎ捲って世界二位の経済大国に伸しあがって、アメリカと世界の覇権を争っているのだ。

~正に、ヒットラーの予言通りの世界情勢である~

毛沢東の思想の原点と戦略 (徹底的に分析、研究して将来に備える)。

★毛沢東の基本的思想は?

始めに、

恐るべきか? 勉強不足か? 今回の選挙は『新党ラッシュか?』、『分党ラッシュか?』か、昨年は様々な政治的なドラマがあった。

先ず、共産党が独自候補を、他党共闘に変更である。

しかし、共産党が、如何に足掻き,もがいても共産党では、政権にあり付けない、と判ったからだ。

★中華人民共和国の創設者『毛沢東』の基本理念が、

『韜光養晦』(とうこうようかい)。「闇に紛れて力が付くまで待つ」(四文字熟語)で、ある。

さらに、1919年の初期、共産党大会のメンバーは数十人だったのに、反し、国民党員は数万名であった。

これでは永久に政権の座に付くのは不可能と、共産党員である事隠し、国民党に加盟させ、内部での、共産主義思想の普及に努めた。 これを『宿(ヤド)借り作戦』と呼んだ。

★『韜光養晦(とうこうようかい)』。『闇に紛れて力が付くまで待つ』の二つが共産党の基本理念だ。

★そこで『国憲・民主党』と、共産党と選挙協力し、候補地の協定を結んで、立憲民主に恩を売り、『立憲・民主』内から共産党員の名を隠し、候補者にする。 

若しくは立憲・民主を、裏から操る。 

★これは、立憲・民主の枝野氏が「今回の選挙では共産党の借りができた」と述べているのが、その証である。

★私は、今回の離合集散劇を見ていると、何か依然、読んだ気がする、と思って、毛沢東の伝記、思想を読み直す内に気が付いた事である。

★だが、1919年と言えば、メディアのテレビは勿論、新聞もラジオ等のメディアは、存在しなかったので、このような隠密活動もできたのだ、と、思いますが、皆様と一緒に日本の将来の見通しを考えて見たい、と思いますので、宜しく。

   

~毛沢東の基本思想~

★チャイナの海洋進出が叫ばれて久しい。

南シナ海の岩礁を埋め立て、人工島を造り3000メートル級の軍用滑走路ができ上げって軍事基地化は既にできた。 

『一体一路の海洋シルクロード』の建設に、途上国に対する経済援助は惜しみなく与える等々と姦しい。

では?中華人民共和国の創立者・毛沢東の基本的思想は、何か?検証してみたい。

その基本思想とは何かを?

★「力がない間は、闇に紛れて力の付くまで待つ」。(タオ・グワン・ヤーン・ホイ)であり『毛沢東』の編みだした、帝王学の基本中の基本である、と既に書いた。

この思想は国家の運営も同じで、後継者の『習・金平』にも引き継がれている。

★すると、中国共産党の取る、強硬な態度の『尖閣列島』、『東シナ海、南シナ海の岩礁地区を埋め立人工島の建設』、あるいは日中中間線で海底油田採掘櫓の建設を、幾ら日本が抗議しても、梨の礫で増え続けいる事が理解できる。

★「力がない間は、闇に紛れて力の付くまで待つ」。(タオ・グワン・ヤーン・ホイ)で、日米と争っても勝ち目がない間は、「力がない間は、闇に紛れて力の付くまで待つ」。

で、中華人民共和国、建国以来、70年、「臥薪嘗胆」、闇に紛れて、力の付くまで待ていたのである。

★彼等のいう『革新的利益』は、「待ちに待った時が来た!」のである。

また、自国傘下の北朝鮮の「核、ミサイル」実権を繰り返すのも、根っ子は繋がっている。

~日本が口先の抗議した位で諦めるものではない!~

★日本政府が、口先で幾ら厳重抗議しても、いわゆる『蛙の面にションベ』である。

古来から、孫子の教えは『敵を知り、己を知れば、百回戦しても危なからず』、(危険はない)、であり、その思想を学んで育った彼等である。 

★日本の国会論争は全て見て、対応を研究している。

国家会での与野党のやりとりは、「敵がこうくれば、こういう対策であたる」。

説明責任と称し、与野党答弁でペラペラしゃべっている。

★これでは、敵に手の内を教えているようだ。日本が何時反撃する、しないか、を、解った上でそのギリギリの線までの侵入を繰り返し、実績を創っているのだ。

我日本人は如何に対応すべきであるか、は『己自身で知るべし』である。

★対策の第一は、この情報流失を防ぐ事である。

『孫子の兵法により、彼等は、城攻めには敵の三倍の兵力がいる』、と教えられているので、彼我の戦力が対等であれば攻めてこない。 

★彼、毛沢東の思想の原点は、幼少期に父の家業は、裕福な農家である。

ただ、父一代で築きあげた、努力家である為に、『家畜の世話を手伝わさんと』、(彼(習・金平)は扱き使われた』。

だが、向学心の旺盛な彼は、反抗し、隠れて書物を読み耽った。

★見つかると、父は暴力奮って農作業を強制する父に反抗して、しばしば殴られていたのが、母の執り成しで、『地面に頭を擦りつけ、父に謝った』。

この悔しさは生涯忘れる事の出来ない事であった。

★長じて社会にでて、学問を学ばんと北京大学を受けるが、書物を読んだ知識はあるが、基礎勉強をしていない、彼は受からない。

何度も挑戦をするが合格はできず、雑役婦として図書館に勤務、合間に学ばんと試みたが、館内の掃除、来客の案内等に終始し、『俺より頭の悪い奴らが偉そう、』と反発し、辞めてしまった。

★そして彼は、『自分の住処は農村だ、農村に紛れ込み、力を蓄えようと決心した』。

この思想は現在の『指導者・習・金平氏』にもひきい継がれている。

★習・金平氏の父は、延安の長征の頃からの毛沢東の腹心とし戦いに参加し、国務院・副総裁まで登り詰めたが、毛沢東に『反革命分子』として捕らえられ、16年(1925~1978)も投獄されていた。

彼・毛沢東が、国共合作で日本軍と戦っていたが、真の敵は、蒋介石率いる国民党軍である。

★国民党軍を叩いてくれる日本軍と、我々共産党軍との戦闘は避けねばならない。

反日で国民政府軍と共闘しても、真剣に日本軍と戦ってはいけない。

★産党は「勇猛果敢に日本軍と戦っている、と国民に思わせればいいのだ」。と、厳命されていた。

★これを中実に実行した司令官・習・金平氏は『知り過ぎた男』として、『反革命分子』の、汚名を着せ、多くが粛清、投獄して事実を隠ぺいしたのである。

★、習・金平は文化大革命の時、『反・革命分の子』の子として、自ら志願してとして、山奥に下方(思想教育とし田舎に行かされる事)され、肉体労働の強制を甘んじて受けた。

★その時の場所に選んだのが、父が16年の長きに渡って幽閉された、『悔しさの籠っている』あの延安で地であった。

★ヤドカリ作戦

1921年、上海で中国共産党の結党大会が模様され、毛沢東は長沙代表で参加する。

党員は30~40名くらいであった。

この頃は、共産党も国民党も混然一体であった。

国民党とは、孫文が創設した中華革命党を1919年10月に改組したものである。

★中華革命党は1906年三民主義、(民族、民権、民生)を綱領として結党し、辛亥革命を成功させている。

★共産党が結成したころのシナの国号は『中華民国』で、中華民国の与党は国民党であった。

この孫文に対し、コミンテルは執拗に国共合作を提案してきた。

★誕生したばかりのソ連は、ロシア革命の王族一家の悲惨な最期を知った各国は、中々ソ連を承認しなかった。

★闇に紛れた噂の、ロシアの王族一家の斬殺現場は、ソ連時代は密閉され、事実の確認する術は無かったが、ソ連解体後に公表され、銃殺された白骨化された遺体が、発見されたのである。

★あせったソ連は、『ならば隣国を国ごと共産化してしまえ』、として創ったのがコミンテルである。

★コミンテルは共産化の焦点をシナ大陸に絞った。中国共産党創立の御膳立はコミンテルがしたのである。

いうなればコミンテルはソ連の傀儡として誕生したのであるが、何としても党員の数は少なすぎる。

★1922年7月、第二回共産党大会が上海で開かれた時の党員は195名、国民党は13万5000人で比較にならない。このままでは中国に共産党政権を建てる等は夢物語である。

そこでコミンテルと協議の結果生まれたのが『ヤドカリ』作戦であった。

★共産党党員は身分を隠し、国民党の党員となって、内部から国民党党員を伐りぐずし、勧誘して党員を増やす、という陰謀を決議した。

まず、コミンテルはヤドカリ作戦の秘密を徹底し、孫文に国共合作を提案、説得を始めた。

★当然孫文は拒否するが、コミンテル代表のヨッフエが、「ソ連は中国の共産化は考えていない」、「中華民国の統一と完全独立を支援する」等の美辞麗句を並べ口説いた。

諄かれ、孫文は、ヨッフエの言葉を信じ、『ヨッフエ・孫文宣言』を結んで第一次国共合作が出上がった。

★共通に戦う相手は群雄割拠し、国を乱す軍閥と背後にいる欧米列強(列強との戦いは建前であり実際に行われなかった)であった。

★軍閥とは日本人には聞きなれない名前だが、清朝末期に国力が衰え、兵士の支払う給与も払えなくなると、指揮官が兵士を連れて脱走し、地方の政府機関を占拠し、文官の地方役人を脅し、居座って縄張りとするのを軍閥と呼んだ。

★大きなものは、数十万の兵力を持つが、小さいものは百名くらいで山城を築き、立て籠って、収穫時の農村を襲って収穫物を奪う。

または、金満家の屋敷を襲って金品を略奪、婦女暴行を行う、匪賊と呼ばれる野党群等が跋扈した時代であった。  

★この辺の事は、アメリカの作家のパールバック女子が、『小説・大地』で詳細に画いているので、御一読を勧める。

★国共合作が実施

1923年6月、広州で開催された中国共産党第三回大会で国共合作が提唱された。

孫文がコミンテルの支持に従っての合作のどうしても賛成できない勢力も多く、会議は揉め、最終的に『共産党員個人で国民党に入る』という、共産党の密約通りなになった。

★それとは知らず、中国統一の美名に酔った孫文は、1924年1月、第一回・国民党全国大会を広州で開催、一万名に近い、新たな党員が入党、15万となった。

この大会で三民主義を基本とするが、国共合作の為に共産党を受け入れる為の『容共』、工人、農民を助ける『扶助工農』が、党綱領として採択された。

★この大会の個人の資格で参加した共産党員の中に毛沢東もいた。

この大会で共産党員を国民党に入党に反対の意見に、毛沢東が発言し、合作は決まっているのに入党に反対する意見等の審議は禁止し、議事進行すべきで、今は革命に全力を注ぐべきである。を強行発言、存在価値を高めたのである。

★この堂々とし、筋の通った発言に、孫文と国民党幹部は注目し、国民党中枢の執行部に高く評価され、いきなり国民党の中央執行委員に当選した。

もっとも、国民党大会に出席した共産党員が、次から次えと発言し、議論を奪うという戦法を採った側面もあったが、国民党大会で毛沢東が、その戦術に加わったのは注目に値し、

★毛沢東は革命戦線の中央に躍り出たのである。

話題を変えよう

歴史を捏造する中国人

★日中戦争は1945年に終結、中華人民共和国は1949年に誕生した。

この4年の間は、中国国内で毛沢東が率いる共産党軍と蒋介石率いる国民党軍が戦っていた内戦状態であった。

~日中戦争当時のことである~

しかし、今の習近平政権は、抗日戦争(日中戦争)の時に最も勇猛果敢に戦ったのは中国共産党である、と捏造し抗日戦勝利を盛んに宣伝している。

★しかし、中国人民を裏切ったのは、建国の父、毛沢東であって、真実は毛沢東は日本軍と戦っていない。

~毛沢東はもっぱら日本軍と共謀していたのである~

★日本が戦っている中華民国の蒋介石、国民党軍の軍事情報を、高値で日本側に売り渡した。

そして日本が国民党軍と戦っている間に、日本から得た莫大な資金を元に、中国共産党軍を強大化させていたのである。

情報を得た日本軍は戦いやすくなった。時には、国民党軍を日本軍と共産党軍が挟み打ちにしていた。

★そして、日中戦争終結後、毛沢東は蒋介石を追放し中華人民共和国を樹立したのである。だから、毛沢東が生きている間は、ただの一度も抗日戦争勝利を祝ったことがない。

なぜかといえば、最大の政敵である蒋介石の功績を認めることになるからである。

そして毛沢東は、中国共産党を育ててくれたのは日本だ、日本軍に感謝する、日本軍の進攻に感謝する。と語っているのだ。

~戦後70も経った今、何故、抗日戦勝利、を叫ぶのか?~

しかし、近年中国では、「抗日戦勝利!」、と大々的に叫んでいる。

その目的は、日本は悪者である、と決めつけ、中国の人権侵害や少数民族弾圧を世界の目からそらすこと。

★そして、日本共産党などの左翼勢力が、日本は中国に謝罪が必要だという思想を植え付けるための中国の政策である。

★これをマスコミは伝えないこと、日本での教育がないことが問題である。

国連中心主義では世界平和にも、国益にもならない!  

私は2011年7月フエースブックの投稿を始めて以来、何度も国連の不備を何度も訴えてきた。

その一部を紹介し、国連改革(新国連の創設を含む)を提案して見たい。

民主党が参議院で多数を取った頃に、私がFBで発表した記事であるから10年以上前の記事である。

小沢一郎を現在の民進党に置き換えて読んで貰いたい。

★アフガンのテロを封じ込むために、多国籍海軍がインド洋で封鎖活動をしている。

国連決議にない、この作戦の協力する事は憲法違反となるので、『テロ特別措置法』には反対を唱え、民主党が第一党である参議院で否決、作戦中の海上自衛隊の艦船は引き上げをした。

★小沢一郎は国連決議のある、AISFのアフガン地上作戦には陸上自衛隊の派遣はありうる、という。

AISFとはEUの連合軍であり、それに参加する事はEUの指揮下に入ることである。

EUの加盟各国は、将来には合衆国を目指して各種制度の協議をし、手続きを進めているのだ。

まさか、日本をEUに加盟する積りか、自国の軍隊を自国に指揮権のない組織に送り込む積りか、それでも小沢氏は日本人か?と感覚を疑う。

★民主党の小沢代表が国連決議のない、アメリカ単独の戦争であり民主党は協力しない、と宣言した。

小沢一郎氏が唱える「国連安全保障会議の決議中心主義」がどういうものか真剣に考えてみよう。 

小沢一郎は民主党を抜け出し、自由党を名乗っても、党員五名に政党要件に達せず、政治ゴロのような『山本太郎と愉快な仲間達』と組んで、辛うじて政党助成金の給付を受けているが、正に消え去る寸善の状態だが、未だに息はして、『唱える理屈は同じである。

そこで、まずは、

★「国連は絶対中立なのか?」

「国連は絶対正義なのか?」を、研究してみたい。

国際連合とは、

~第二次世界大戦の戦勝国連合以外の者でも何ものではない~

国際連合とは第二次世界大戦が連合国側の勝利で終結し、戦後世界の平和とその維持を如何にするか、アメリカ主導で大国が集まり話合う『場』とし出来た組織に他ならない。

★大国とは「アメリカ」「イギリス」「フランス」「ソビエト社会主義共和国連邦」「中華民国」、の戦勝五カ国が中心である。

★当然、日本、ドイツは敗戦国でこの中は入っていない、その上、国連に敵国条項があって何の発言権はない。

1、一番重要な安全保障理事会はこの五カ国で構成され。

2、この五カ国が拒否権を持っている。

3、同時にこの五カ国は核保有国でもある。

★しかも、戦勝五カ国うち、国家として継続しているのはアメリカ、イギリスの二カ国のみである。

フランスは大戦中ドイツに占領された実質敗戦国であるが、ドゴールの巧みな外交の駆け引きで戦勝国の仲間入りをしているだけなのである。

★蒋介石政権の中華民国は共産党軍との内戦に破れ、台湾に逃れ一地方政権となり今や台湾には独立運動が起こっている。

中国大陸を支配するのは『中華人民共和国』は、中華民国と戦って勝利、1949年独立を宣言した全く別の国である。

★ソビエト社会主義共和国連邦は超大国として、アメリカと世界の覇権を競い冷戦を戦って敗れた。そして、ロシアは、「ソビエト社会主義協和国連邦」は崩壊した後に、一五の共和国に分裂した一大国に過ぎず、なを、大国を維持せんと国連の『場』を利用しているに過ぎない。

~もはや国連は設立当時の戦勝国連合ですら無くなっている~

★国連は設立の趣旨と異なってしまった   

現在、国連はイラクの利権(石油)を求め、米英連合、仏独連合、ロシア、中共と四つ巴の駆け引きの「場」と成って居る。つまり弾丸を打ち合わない戦場で有る。

この事実を見て、日本がアメリカの要請を受けイラクへの援助に自衛隊の派遣するのを、~「国連中心でなければ成らぬ!」と断ることが日本の国益になるのか~

考えるまでも無い。

★むしろアメリカがイラクの処理に梃子摺って(てこずって)いる今、積極的に自衛隊を「イラク復興」に派遣しアメリカに恩を売る絶好のチャンスである。

アメリカ一国で出来ている時に、絶対に日本を仲間に入れる事はない。日本もこの際エネルギー安定供給を目指し中東に権益を持つべきである。

★今海外で活躍している日本人は一千万人以上いると聞く。今、その生命、財産を守る為にも好むと好まずとして、日本の安全保障のグローバル化を考えざるを得ない。

すなわち、世界のパワーゲームに参加せずには済まないのである。

それを『安保法案』が通れば、アメリカと同盟を組んだ自衛隊は地球の裏側まで行って戦争をする。と野党は叫ぶ。同調してメディアまでもが叫ぶ。

何処からが裏側か? 

警察の交通課の巡査が『立ち入り禁止』のテープを張って一般人の立ち入りを禁止する積りか?! メディアに従事する人々の頭を疑う。

★もっとも、「フランス、」「ドイツ」と「日本」が三国同盟を組んで、アメリカと戦争したい人達は別である。

日本の国益を考えればアメリカと同盟を組む、以外の道が無いない事は明白の事実である。

★何故ならば、日米は太平洋を舞台として、死闘を繰り広げ、人員、物資を世界戦史に類を見ない損害をだしたが、一旦『講和条約』を結んだら、過去は水に流し友好国となって、

~日米安全保障条約は結んでいる~ 

また、多大の死傷者と多くの損害を出して武力占領をし『自国の基地として現在も必要な沖縄』を我が日本に返還してくれた国である。

★一方のロシアは北海道の一部の北方四島を、敗戦時のドサクサで不法占拠して未だに返さない国である。

インド洋でアフガニスタンの海上封鎖している多国籍の艦船に、オイル供給は国際協調で各国に感謝されているだけではない。日本の国益の為にも必要である。

★それは北朝鮮の拉致被害者の返還に理解を示している国はアメリカだけであり、国連の決議で拉致被害者が帰って来るものではない。

★アメリカの世論は、北朝鮮が核を放棄すればテロ支援国家の指定を解除する方向に向いている、とも聞く。

日本は拉致問題が解決しない内にテロ支援国家の解除はしないでくれ、と要請している。

(テロ支援国家は、すでに解除されている)

★その時期に参議院の第一党になった、と民主党が国連決議のないアメリカの戦争に協力はできない、と言う。

事実インド洋で活躍中の艦船は、一度は停止帰国している。

日本がテロとの戦いに積極的に国際社会の協力をせず、北朝鮮のテロである拉致問題に協力する事等はあり得ない。

~重武装をする気があるか民主党は!~

また民主党が日米同盟より日本の絶対中立を唱えるなら、重武装をする覚悟があるのか、スイスを非武装中立とでも思っているのか? 

★スイスの国土は日本の九州程度で、人口の900万の小国である。 

その10%、90万の軍隊を動員する準備があるから中立が保てるのである。

★第一次世界大戦でドイツがフランスを攻めたいが、独仏国境線の造ったマジノラインと呼ばれた要塞を避け、スイス国境の通過の許可を求めた。

スイス政府は「御自由のどうぞ、でも、一フィフィート毎に一万の人的損害を覚悟してください!」と言ったと聞いている。

★流石のドイツ・ヒットラーもスイス国境は諦め、同じく中立国でも『非武装で、中立を宣言』する、ベルギー国境を突破しフランスの御自慢の、強固なマジノラインの裏側に攻め込んで難なく勝利している。

★さらに、第二次世界大戦でスイスが中立を保てたのは、スイス銀行が国際資本の逃避地としての役割を果たしていたからである。これだけの気概と経済的な努力が中立を保ったのである。

★経済大国日本の立場も非常に似ている。

人口の一割、一千万とは言わぬ。

せめて、百万人の軍隊に核武装を含む重武装をさせ、空母機動部隊の四セットでも持てば、絶対中立(どの国とも同盟は組まぬ)は出来るかも知れない。

★戦国時代を統一した日本がキリスト教の弊害を恐れ、布教を禁止して鎖国し、宣教師を虐殺し鎖国を宣言した。

これができたのは当時の日本は鉄砲の保有、生産を含めて世界の軍事大国であったからだと言われている。

自国の宣教師を逆殺され、怒ったスペイン政府が、本国からの援軍を得て、日本を攻略戦と、と試みた。 しかし、当時の日本は、鉄砲の数、性能、生産力どれをとっても世界一で攻め込む空きがなく、諦めた、と言われていた。

★それから二百六十年の太平の夢を破った、四隻の黒船の撃つ砲声に驚き、ただウロウロするだけで、戦国時代を統一した旗本八万馬と言われた、精鋭も幕府の官僚となって戦う術も失って、黒船4隻に乗った陸戦隊と戦っても、追い返す軍事力が無かったので不平等条約結んで、開国を余儀なくされたのである。

★憲法九条を守り、アメリカのいいなりにならなければ、絶対中立の日本が出来ると、お思いの似非・平和主義の方々に聞きたい。これが実態である。

明治開国以来日本が富国強兵で世界大戦を引起し、

★「世界中の人々を不幸にした事は幾ら謝っても謝り足りない、二度と戦争は起こさない」と謝り回る平和主義の皆さんに百歩譲ってその論点を認めたとしよう。

★日本の暴挙を止めさせたのは『キリスト教の牧師さんの説教』でも、『イスラムの聖職者』の説くアラーの平和の教えでも、『仏教の坊さんの説教』でもない。

★平和主義の皆さんが一番嫌いなアメリカ軍が、日本軍より戦争が強くて、戦いが旨かった。ただ、それだけである。

    (完)    豊永高明 拝、

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