時代背景

当時の世相)

筆者は昭和8年9月19日(1933年)生まれである。

七歳の昭和15年は紀元2600年祭で壮大な儀式が随所で行われていた。

★中でも印象に残っているのは、橿原神宮が増築され、明治神宮の代々木の森を真似てか、全国各地からの寄付された樹木を植え、橿原の森の新設に、小学校・高等科・中学生が、勤労奉仕に参加するのを、尋常小学校の生徒達が、最寄りの駅から夜行列車に乗って出発するのを見送りに行って、「万歳!万歳!」と叫んで見送るのを、後ろから見て、羨ましかったのが印象に残っている。

★翌、昭和16年3月31日に国民学校令が発布。

翌4月1日に実施で、『国民学校の一年生』となった。

筆者の産まれる前年の七年、満州事変勃発。昭和12年シナ事変が勃発。

筆者が国民学校に入った年の昭和16年12月8日、米英に宣戦布告。

『帝国陸海軍部隊は西太平洋で米国、英国と戦闘状態に入れり』。

で、同年5月15日(国民学校5年)に終戦。

★筆者の産まれた1933年にドイツのヒットラーのナチ・ドイツ誕生で、欧州の緊迫状態発生。

正に少年時代を戦争中で経験した。そんな目で歴史を覗く事にする。

地球は全て欧米白人の植民地であった。

まず、彼達の生まれ育ったシナ事変の前を基準として世界の勢力分野を見たい。

★当時の世界全土は(地球の全て)地中海周辺のヨーロッパ諸国の植民地であった。

我が日本を中心に見ると、朝鮮、台湾は日本本土と同一であり、地図は赤く塗られていた。

★南に下がって行くとフリッピン諸島、太平洋に浮かぶハワイ諸島はアメリカ領。

★さらに南洋諸島呼ばれた島々は、今のインドネシアで欄印と呼ばれてオランダ領。

★ユーラシア大陸沿いのインドシナ半島のベトナム、カンボジャ、ラオス等の諸国は

仏領インドシナと呼ばれフランス領。

★西のマレーシア、ミャンマー、インド、マレー半島と、突端のシンガポールは、強固な要塞もあり、軍港として香港と並んでアジア統治の要であった。

さらに太平洋を挟んだ対岸のオーストラリア大陸は英国領。

アジアで独立国は日本とタイ以外は全て欧米列強(英、仏、蘭、米)の植民地であった。

★米国は『米西(スペイン)戦争に勝利して、スペイン領であった、フリッピンを譲渡されたもので、アジアを本格的に植民地にして、長年植民地経営をしていたのは英、仏、蘭の三ケ国であった。

★中東のアラブ諸国に目を転ずれば、三角定規で筋を引いたような国境線である。

砂漠に住む遊牧民に国家の概念は無い。必然的に国境など存在しないのである。

ラクダの背に商品を積み、隊商を組み、東西の産品を積みシルクロードを経て、東西両文明の繋いでいたのである。

そこに石油が見つかり、その利権を分け取りにようと、ヨーロッパ諸国が三角定規で筋を引いたような国境線のアラブ産油国である。

★またアフリカ諸国も同様、自然の中に溶け込んだ先住民が部族単位で、自然と共存して長閑な生活をしていたのである。

これまた中近東と同様、ヨーロッパ勢の縄張り別けによって経度、緯度の線引きの国境線を引いたような国境を設定したのである。

★学校では世界地図を広げ、先生の説明がある。

それ見る僕等は日本の小ささと、シナ大陸、アメリカ大陸の広さと比べ、唖然とし、アジアを植民地しているのは遠い欧米であるのが不思議であった。

何で日本は取りに行かなかったのか、子供心に不思議であった。

★連戦連勝の戦勝に日本軍も補給が続かず、力が付きて来た。

物量に物を言わせたアメリカ軍の反撃が始まった。

坂道を転げるような負け戦が続き、やがて玉音放送で終戦。

★皇居前の日比谷公園で、正座して皇居拝む、善男善女の心中は何があったのであろう。

第一次世界大戦の敗北した、敗戦の責任を追及し、国外に追放したドイツ国民のように

恨むなら、皇居に向かって石でも投げるだろう。

★正反対で、「自分等の力不足で、終戦の勅語を読む対場に追い込んだ事を詫びたと、確信する」。

この姿を見た占領軍は、如何に感じたか?心中を覗いて見たい。

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