日本の皇統が二千年も続いたか?

天皇陛下がパラオに、戦没者慰霊に行かれた記事を見て思わず涙がこぼれました。 八十歳を超えた御高齢の、陛下ご自身のたっての御希望だ、と聞いて、ますます感激です。  

★アッツ島、パラオ島、硫黄島、サイパン島の守備隊が玉砕するまで戦った、軍人、軍属、一般人、さらに、敵だった米兵の慰霊碑にも日本から持参した花束を捧げる姿を見て、日本人ならずとも、感激の涙を流すであろう。 まして今上陛下は、当時の昭和天皇の皇大子殿で、国民学校四~五年だったと思います。 それが、当時のニーウスを覚えて入ると考えにくい。  つまり、日本史を好く学び、国民の事を常に思っていられるのだ、信じます。 ―国家の一大事時に経った陛下の態度― 天皇陛下は戦の年、昭和20年9月27日、天皇陛下がただ一人の通訳を連れて、マッカーマーサーを訪問した事は、皆様方もよくご承知の通りであります。 

★マッカーサーは、陛下は命乞?亡命を乞いに来られたものと勘違いし、傲慢不遜にもマドロスパイプを口にくわえて、ソファーから立とうともしなかった。  

★陛下は直立不動のままで、国際儀礼としてのご挨拶を終え、こう言われました。 『日本国天皇はこの朕(私)であります』。 「戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません」」。 「裁きがいかなる極刑(死刑)に処されても、甘んじて受ける。 弱ったのは通訳でした。その通り訳していいのか? しかし陛下は続けました。

 ★「しかしながら、罪なき八〇〇〇万の国民が、住むに家なく、着るに衣なく、その日の食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。 温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように」。 

★その後、直ちに、豆粕、キュウバー糖、メリケン粉、と呼ばれた小麦粉等の食糧援助がただちに行われ、我々は飢えから救われたのである。 

 ★天皇は、やれ軍閥が悪い、やれ財界が悪いと言う中で、 「一切の責任はこの私にあります、絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処せられても…と淡々として申された」。 敗戦国の元首がこのような態度を見せられたのは、我等の天皇ただ一人であったのです。 陛下は我々を裏切らなかった。 マッカーサーは驚いて、スクッと立ち上がり、今度は陛下を抱くようにして座らせました。 そして部下に、「陛下は興奮しておいでのようだから、おコーヒーをさしあげるように」と。

 ★マッカーサーは、今度は一臣下のごとく、直立不動で陛下の前に立ち、 「天皇とはこのようなものでありましたか!天皇とはこのようなものでありましたか!私も、日本人に生まれたかったです」。 「陛下、ご不自由でございましょう。私に出来ます事があれば、何なりとお申しつけ下さい」と。 陛下は、再びスクッと立たれ、涙をポロポロと流し、 「命をかけて、閣下のお袖にすがっておりまする。この私に何の望みがありましょうか。重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」と。 そののちマッカーサーは、陛下を玄関(ホール)まで伴い、見送ったのである。 

★世界戦史に勝者の態度。敗者の態度、色々あるが、恐らく世界に例がない、と言えるこの態度。 さらに、皇大子殿下(今上天皇)の教育係りとして送り込まれた、バイニング夫人(恐らく日本の愚民化の先兵)が、殿下の気品に位負けして、本来の任務を逸脱して、欧米文化、マナーを教え、さらに、日本の皇室素晴らしき伝統の橋渡しをしたのである。  

★マッカサ―は、アッツ島、パラオ島、硫黄島、サイパン島の守備隊が玉砕するまで戦った日本軍が、天皇の命令一下で武器を置き、一発の銃声を聞く事はなかった。  この統率力を占領政策に利用しない手はない、と一転して天皇制を擁護し、日本文化を認め、日本統治のこれを利用したのだ。

 ★日本の軍事力、工業力を取り上げ、三流の農業国にしてしまおうと思ったが、折から起こった朝鮮戦争の基地にする必要上、日本を強化し、同盟を組む、と替わって行った。 しかし、マカーサーの本音は『日本が天皇の元に団結』するのが怖かった、と推察する。 ―マッカーサーの遅すぎた悔恨― 『正統史観年表』 昭和25年、軍役を離れたマッカサ―は上院の公聴会で証言している。 

★日本は八千万に近い膨大な人口をかかえ、それが四つの島にひしめいているのだということを理解して頂かなくてはなりません。その半分近くが農業人口で、あとの半分が工業生産に従事していました。 潜在的に、日本の擁する労働力は量的にも質的にも、がこれまで接したいずれの民族とも劣らぬ優秀なものです。 歴史上のどの時点においてか、日本の労働者は、人間は怠けている時よりも、働き、生産している時の方がより幸福なのだということ、つまり労働の尊厳と呼んでもよいようなものを発見していたのです。  

★これほど巨大な労働力を持っているということは、 彼らには何か働くための材料が必要だということを意味します。 彼らは工場を建設し、労働力を有していました。しかし彼らは手を加えるべき原料を得ることができませんでした。 

 ★日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何も無いのです。 彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫が無い、ゴムが無い。その他実に多くの原料が欠如している。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在していたのである。 もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、 一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼ら(日本政府・軍部)は恐れていました。 

★したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、 大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。 

★会場にはどよめきの声があがった。 

★『小堀桂一郎編『東京裁判 日本の弁明』より。この発言は彼の証言から三日後の5月6日、ニューヨーク・タイムズ紙に全文が掲載されました。 マッカーサーの遅すぎた悔恨。「侵略の世界史」清水馨八郎著(祥伝社)より引用 。 

★マッカーサーの占領政策が、敵対から途中で同盟に大転換したのは、 昭和25年に突如発生した朝鮮動乱からだ。 日本に自衛隊の創設を認め、防衛の協力者にすることに方針が一変した。 朝鮮戦争とは、共産圏のソ連と中国が北朝鮮をそそのかし韓国に侵入させたもので、中ソとアメリカの代理戦争であった。 米国はそれまで中ソは連合国側で仲間と考えて、北に対し何の防備もしていなかった。

 ★ここで初めてマッカーサーは、以前、日本が戦った日清戦争と日露戦争を一緒にしたものを 日本に代わって米軍が戦わされているということに気が付くのだ。 そしてマッカーサーは、 日本の過去の戦争がすべて中ソに対する自衛のためのものであったと、 始めて確信するのである。  

★これを契機にアメリカもスターリンの罠に掛かっていたことに気が付くのだ。大戦終了時から芽生えつつあった米ソ対立の冷戦が明確なものとなった。 米国の真の敵は日本ではなくソ連だったのだ。 せっかくアジアの防共の一大勢力となっていた日本を米国が潰してしまった結果、中国大陸はほとんど全て共産圏に献上した事になった。 以来、 朝鮮戦争とベトナム戦争という二つの戦争で、アメリカは日米戦争以上の数十万人という 手痛い被害を受けることになってしまった。 ―皇位継承者の減少は、占領軍の置いたトロイの馬か?― マッカーサーが、天皇陛下と会談で、「日本に産まれたかった」と言ったのは本音と思うが、連合軍司令長官になると替わってくる。 日本が天皇中心に余り団結する恐ろしい。  アッツ島、パラオ島、硫黄島、サイパン島、さらに沖縄戦の守備隊が玉砕するまで戦う、 悪夢がよみがえる。 軍国主義を否定し、民主主義を(押し付け)導入しても、素直に自分のものにしてしまう。良いと思った事は素直に受け入れる。  この原点は『聖徳太子の17か条の憲法の一条が『和をもって尊し』、とする』。 

★しかし、三条に、「詔を承ったら、素直に聞け、それを『守らなければ亡びる』とある。 ★これが大和魂の原点だと判断した。 

★最早日本は大事な同盟国だ、だが、あまり強くなり過ぎると、アメリカの権益を損なう。 如何にすれば目立たぬように日本の国力を削げるかを考えた、置き土産が、『憲法9条』と『皇族家を減らす事』だった、と推察する。 

★皇室典範では、『直系の男子が皇位を継承する』、である。 

今上天皇を継ぐ資格のある方は御二方しかいない。  じわじわと効いてくるこの問題の解決のひとつが皇族家の復活である、思う。 「皇位継承資格者途絶えて時は皇族家から養子を迎える選択肢もある。」 二千数百年続いたこの伝統『直系男子』の我々の時代に途切れさすわけにはいかない。 国民全体で考えるべきである。 (完) 

 4000字に及ぶ長い話を最後までお読み頂き感謝します。       豊永高明 拝 

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