御存知でしたか、日本の国際法の順法精神。

★日本の人道主義は世界一番だった。

第一次世界大戦のドイツ軍の捕虜の扱いが紳士的だった前に、日露戦争での捕虜が多く、彼等の扱いが如何に国際法を順守、紳士的だったかを話して見る。

日露戦争当時はニコライ皇帝の独裁に嫌気を差した兵士達が、日本軍に遭遇すると、「松山!松山!」と叫びながら武器を捨て、走り込んで投降する。

★こうした彼等を四国の松山に送った。

収容所と言っても鉄条網でかっこている訳ではなく、朝の点呼さえ済めば出入りは自由で、彼等は町を自由に歩いき、市民共、交流があった。

この噂はロシア軍だけでなく欧州全域に広まっていた。

★国際法遵守とドイツ兵捕虜たちの収容所生活。

第1次世界大戦当時のドイツ兵捕虜達が日本各地に約4700名が、16ケ所に別れて収容された。

日本は国際法遵守を重視した取り扱い、文化活動にもいそしんだ捕虜たちの生活を、当時の資料から掘り起こして見たい。

★2014年は第1次大戦勃発から100年に当たる。時に欧州大戦ともいわれるように、第1次大戦が日本で話題になることはほとんどなかった。

第2次大戦の出来事があまりに強く記憶に残っていることが、その原因かもしれない。

★ともに世界大戦といわれながら、実は両者の間には著しい違いがあった。日本は第1次大戦に連合国の一員として参戦した。

しかし実質的な日本の戦闘行為は、中国山東半島の青島攻防をめぐるドイツとの戦い、所謂、日独戦争にほぼ限られ、それもわずか1カ月半ほどで終結した。

その結果、約4700名のドイツ兵捕虜が日本各地16カ所の収容所に5年余りにわたって収容された。今では忘れられた出来事が、文化活動である。

故郷を偲んだ彼等は、年末になると、楽団を組み、べートウベンの交響曲第九の演奏である。

日本側も協力して市内でしばしば演奏会を開いた。

★国際法を遵守した捕虜収容所の運営。

当時、戦争捕虜は公的には俘虜(ふりょ)と呼ばれた。捕虜収容所を管轄する機関の名称も俘虜情報局だった。

今日、俘虜の語はなじみがないので、本稿では引用部分以外には捕虜の語を使用する。

またドイツ兵捕虜といっても厳密には、ドイツ人以外にオーストリア人、ハンガリー人、チェコ人、ポーランド人らの人々が混じっていた。

しかし圧倒的多数の捕虜はドイツ人であったので、捕虜全体に言及する場合はドイツ兵捕虜の語を用いる。

★ドイツ兵捕虜に対して日本は、国際法遵守の精神で対応した。

1907年10月18日にオランダのハーグで調印し、1912年1月13日に公布した「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」、いわゆる「ハーグ条約」に拠ったからである。

★以下この規則に言及する時はハーグ条約とする。ハーグ条約の第2章俘虜の項の第4条には、「俘虜ハ人道ヲ以テ取扱ハルヘシ」との条項がある。

日独戦争の10年前に起こった日露戦争に勝利した日本は、欧米諸国から文明国として認められるように努めた。

そのためには、収容所内での捕虜の虐待や強制労働は決して行われてはならなかったのである。

★しかし1915年11月15日、久留米収容所で真崎甚三郎所長による捕虜将校殴打事件が起こった。

大正天皇即位の大典に際して、捕虜にビール1本とリンゴ2個が特別に与えられたが、日独両国が交戦中であることを理由に二人の将校が拒否すると、怒った真崎所長が頬を殴打したのである。

捕虜の虐待を禁じたハーグ条約を根拠に、捕虜たちは所長の行為に激しく抗議し、当時はまだ中立国だった米国の大使館員派遣を要求する大問題に発展した。

★真崎所長はほどなく収容所長を罷免された。これはまれな出来事と見てよいであろう。各地の収容所でも下級所員と捕虜との間で些細(ささい)ないざこざは起こったが、虐待といえる暴行はほとんど起こらなかった。

―ドイツ兵捕虜たちの写真が物語るゆるやかな規律―

(鳴門市ドイツ館所蔵(左) / 写真2 = O・ハッセルマン氏提供(右)〕

1916年4月始めに撮影された写真である。

香川県の丸亀収容所での収容所所員と捕虜将校との記念写真である。

収容所長石井彌四郎大佐退任記念写真と思われる。

前列中央の石井所長は病気がちであったこともあって、どことなく縮こまっているのに対して、両脇にいるドイツ人将校の方は脚を組んで堂々としている。

★とても捕虜のようには感じられない。収容所での捕虜取り扱いの一面を示しているといえよう。

★名古屋収容所での捕虜達のスナップ写真である。撮影年月日は不明であるが、服装から季節は冬と思われる。

収容所の一室の陽だまりで思い思いのポーズをとっている姿は、厳格な規律におびえる捕虜の姿といったものはほとんど感じられない。

★(久留米市教育委員会所蔵)

〔写真3〕は1915年1月27日に福岡県・久留米収容所で撮られたものである。

この日は捕虜たちによって、ドイツ皇帝ヴィルヘルムⅡ世誕生祝賀会が開催された。

収容所所員山本茂中尉が捕虜たちと和やかに談笑する様子が写っている。

山本中尉はドイツの陸軍士官学校への留学経験のある、ドイツ語が堪能な軍人だった。

収容所では更にドイツ語力を磨くために、捕虜の一人と日本語およびドイツ語の交換授業を行ったことが、元捕虜の日記に記されている。

なお、日独の将兵を撮影した写真は数多く存在するが、笑顔で写っている写真は極めて珍しい。

★故国への便りは無料、月給も支給された捕虜たちは、ハーグ条約の規則の中から、今日では意外に思われるが、市民との交流も自由で、パンに製造技術の指導等して、「ドイツさん、ドイツさん」、と親しまれていた。

戦後、捕虜は解放されたが、敗戦で混乱している故国よりも日本に永住を選ぶ者も多く、パン屋を営み日本に永住した者が多かった。

さらに日本の年末行事の『第九の演奏』は、彼等ドイツ軍の捕虜達の置き土産であった事をお忘れなきよう。

0コメント

  • 1000 / 1000