7)『乙』はハル・ノートの全文である。

7)『乙』はハル・ノートの全文である。

★ハル・ノート(乙)の全文は、

1・ 日本軍の支那、仏印からの無条件撤退。

2・ 支那における重慶政府(蒋介石政権)以外の政府、政権の否定。

(日本が支援する南京国民政府の否定)。

3・ 日独伊三国同盟の死文化(同盟を一方的に解消)

★日本に対し大陸における権益を全て放棄し、明治維新前の日本に戻れと言う事である。

江戸時代アメリカに武力で開国を強制的にせまられて以来、欧米列強に揉まれながらも日本は、不平等条約の改定等、血の滲む努力の末やっと対等になりつつあるところで、「全てを放棄しろ」、というのである。

★こんな訳の解からぬ条件を突き付けながらも、経済封鎖の解除には一言も触れて無い所などは、さすがは「国際紛争挑発国家」アメリカである。

★日本は生存権を賭けて、日米開戦の道を選択したと言うより、開戦という選択を取らざるを得なかったのである。

★資源・物資の調達をシナ大陸で行う正当な権益、アメリカにある日本の資産、これらを放棄しろと言う事は、「死ね」と言うのに等しい事である。

アメリカ流の屁理屈で言わせてもらえば、日本の選択した『開戦』という道は自衛手段であり日本には一切の戦争責任は無いと言える。

―日米の死闘の始まりー

★結果、大東亜戦争が勃発、日米が、太平洋を舞台とし、血みどろな激闘を繰り返したのは、チャイナのロビー活動の結果である。 

★アメリカに勝るとも、劣らない単純な日本人は、「成らぬ堪忍するが堪忍」と、圧力に耐えしのんだが、ついに「堪忍袋の緒が切れた」と、決然立って大東亜戦争に踏みきった。

★結果は御存知の通り、完敗であり、この戦争で3000万数百人という多数の軍人、軍属、民間人も命を落とした、

★12月八日早朝、真珠湾の停泊中の米太平洋艦隊を葬り、続く12月10日には、アジアの危機に備えて、英国の本国からシンガポール軍港に配属された、イギリスの誇る最新鋭の浮沈艦と言われた戦艦・プリンス・オブ・ウエルス、姉妹艦レパルスはマレー沖の遊弋中に、日本の航空隊に発見され、数時間の戦闘の末に、撃沈された。

★この非報を聞いた、英国の名宰相・チャーチルが「日本にこんな強い空軍があるのなら、もっと早くに発表しなかった?これを聞けば、こんな無理な『ハル・ノート』なぞ、出さなかった。と嘆いたと、回顧録に記していた。 

★これは、『彼等は強い者には弱く、弱いと知ったら何処までも強く出る』、これが彼等、欧米列強の常道なのだ。 

★歴史に「もし、」「たら、」はないと言うが、歴史に学ぶ事は、歴史を研究し、「この時こうだったら、こうなった」の、シュミレーションをするべきであった。

★先ず、この二つの海戦と、1941年12月8日にマレー半島北端に奇襲上陸した日本軍は、イギリス軍と戦闘を交えながら55日間で1,100キロの快進撃で、1942年1月31日に半島南端のジョホール・バル市に突入し、シンガポー要塞に砲撃を始めた。

これに対し、守備隊側は、戦闘準備が間に合わず、シンガポール要塞を開場し、白旗を掲げ降伏する。

★これは世界の戦史上まれに見る快進撃であった。

作戦は大本営の期待を上回る成功を収め、日本軍の南方作戦は順調なスタートを切った。

            続く、

0コメント

  • 1000 / 1000