僕の戦後が始まった(人生の振出かも?)
★我が家は疎開で京都に来ていたので、B・29の絨毯爆撃には合っていません。
しかし、終戦前の半年、終戦後の半年、の一年間はB-29の絨毯爆撃で交通網(当時は電車、汽車)破壊尽くされ、都市部での食料(米)の配給は遅配続きで、正に飢えを凌ぐ為の毎日であり、稀に欠配もあった。
そんな事で我が家は母方の縁者を辿って三重県の名張の近くまで食糧の買い出しに、買った闇物資の食糧品を担いで帰る為に就いて行った。
帰りの電車の中で空襲警報が発令された。
終戦間近で、米空母艦隊隊が紀伊半島沖に遊弋し、日本本土の空襲を繰り返していた。
内陸部は空の要塞と呼ばれた銃爆撃機B-29の独壇場で、海岸、及び沿岸諸都市には航続距離の短い、艦載機・グラマンの担当だったらしい。
その艦載機グラマンの機銃掃射にあって、電車は狙われる、と電車を降り、近くの畑の畔に逃げ込んで数メートル先に、銃弾が撃ち込まれ、土煙が上がった事は今でも鮮明に覚えている。グラマンのパイロットの顔が見える位の近さを、繰り返し、繰り返し、機銃掃射を続けた。
パイロットの顔が見えるのだ。僕が非戦闘員なのも見えた筈である。然るに、である。
僕等は飛び去るグラマンを睨み付ける、仕方がなかった悔しさは、誰が知る。
日本軍自慢の無敵の筈の『ゼロ戦』は最後まで姿を見せなかった。
★疎開せず、東京に残った友人が後日くれた手紙で、3月10日の空襲で、家は家財共々全焼し、もう東京は焼け野原で、どこまでも見通せる広っぱ(ひろば)になった。
友人の『誰それは死んだ!』の情報を聞きました。
幸いにも僕の家族は亡くしていません。 しかし、父の仕事は軍需物資だ、の認定で統制会社に合併された。 その役員となった父は、それを誇とりして、情熱を注ぎ、生きていました。
だが、戦後、資産と地位を無くし、呆然自失の状態でした。
★学校では『剣道の防具、竹刀、木刀』の類は校庭に集められ焼却された。
『御真影』と呼ばれた天皇陛下の写真、勅語の類は、校長先生、以下有志の方々が、校舎の片隅で泣きながら燃やしていた。
僕たちは、教科書の勅語、青少年・学徒に賜りたる勅語。戦争や、軍神を美化してもの、戦記物は墨で塗りつぶされるか、切り捨てられた。 先生は淡々と無表情でこの作業を指示していた。
何か間違っている。「先生も昨日の先生と同じ顔だ!」。 僕は切り取って家に持ちかえり、「忘れてなる物か!」と繰り返し読んで頭に叩き込んだ。
★僕はアメリカを憎みました。
進駐軍がやってきました。 示威行動か、京都中心の烏丸通りを、銃剣を担いだ米兵が、隊伍を組んで後進しています。 休憩時間が来ました。三々五々、兵隊達は銃剣を地面に寝かせ、その上に腰を下ろして休んだ時は煙草を吸い、ガムを噛むのだ。
それに比べて日本軍は「小休止!」と命じられ時は、姿勢は崩すが、腰は下ろさない。
「大休止!」の命が出て初めて腰を降ろすのだ。 その時は銃剣を三丁で組たて、決して地面に平積にしない。軍律の厳しさは、日本兵の比ではない。
何でこんな連中に負けたんだ?と不思議であった。
★それの周りを取り囲むように、同級生の児童が見守っている。
兵隊達は「ほれ!」と、犬か猿に餌を与えるように投げる。 それを拾わんと、我先に飛びつくように走って拾うと元の場所へ駆け戻る。
次に投を待って、投げたら拾わんと、身構えて待つ。
『やめろ!餓鬼ども!』と、蹴散らしたかった。だが、銃剣を持った米兵の前では、その勇気はなかった。 私は街角に隠れて泣いた、涙はこぼれて止まらない。
『なんで!なんで!』。ついこないだまで、『欲しがりません、勝までは!』『鬼畜!米英撃滅!』と誓ったではないか。 「負けたんだ!日本は!」。
★学校ではこんな作業は粗方済んだ頃、僕は数人の級友を引き連れ、教員室に先生を訪ねした。
「先生!戦争は負けたんでショ!」「 負けたら僕達死ぬんでショ」、「何時死ぬんです? 手投弾は何時呉れるんです」。
先生は「・・・・・」は黙ったままです。 時間が流れに従って、後ろの友達は一人、一人と減って、僕と先生も二人で黙って向き合ったままであった。 日も暮れる頃になった、先生は重い口を開き、
「もう、お家に帰りなさい。戦争は終わったんだ、君達は死ななくて良いんだ」。
「これからはアメリカと仲良くするんだ!」。
僕も黙ったまま、家に帰りました。 帰っても黙ったままで、父母と何の話もしませんでした。 翌日も黙って学校に行きました。 先生にあっても、昨日の事などは、黙って何も言いません。 友達も昨日のこと等、何も言いません。
何か別世界に来た気がしました。これが私戦後生活の始まりでした。
★明くる年、僕は旧制中学に進み、翌年、学制改革があって『小学校6年,中学3年-高校3年-大学4年』へ移行され終戦後の新体制が始まったのである。
しかし、復員が始まっても未帰還兵が多く、父兄の帰って来ない生徒が多く、中には『・・・方面に作戦中に戦死の公報』を受け、暗く沈んだ顔の友人の顔を見る辛さは、今、思い出しても涙がでる。
僕の親友と呼べる、クラスで成績は常に上位にいた、友達は父の戦死で学資が出せないか、高校へは行けず、日通のトラック助手の就職したのが印象に残っている。
因みに、当時の彼等中学出の給与は2500~3000円で、食べるだけ、家の食費を入れると、下駄一足も買えない金であった。
★下級将校や、陸士、海兵を卒業できず、戦線にでる前の若者も戻ってきて、中学の4年5年に編入してきたので、上級生は年嵩で僕等にとっては叔父さんであった。
必然的に彼等は、戦争、軍隊を経験して、物知りであった。
休憩時間や放課後に、彼等の元に集まって、戦争や軍隊の話を聞くのが楽しみであった。
彼等もまた、些か誇張し、身振り手振りで話してくれた。
総じて彼等は戦争を美化もしなく、やたらに否定もせず、極めて客観できで面白かった。
そんな彼等はアメリカに学ばんと、争うようにフルブライトの奨学金を貰ってアメリカに渡り、我々は羨望の眼で見え送って、フルブライト帰りが居る、と聞けば、遠近構わず押しかけ、貪るようにアメリカの話を聞いた。
彼等も惜しみなく、身振り、手振りで、ドリルは直角の穴を下向けの明ける、アメリカサンのは、ドリルは水平、斜め、同時に幾つで空けるんだ。 だから、飛行機が雲霞のように飛んでくる。それで戦争に勝てる訳はない!と笑い飛ばしていた。
★高校生に入って間も無くの昭和25年、朝鮮戦争が勃発し、雪崩の如く北朝鮮の戦車が攻め込んで来た。 結果は御存じの通り。
アメリカを憎んだ反米少年も、何時の間にか、「アメリカに学べ! アメリカに追いつけ!」と替わって行ったのである。
★そして、皮肉にも日米安保を堅持し、アメリカとの同盟を強化して、世界平和の邁進し、新規に世界の覇権を狙う国家、チャイナの誕生の阻止に励む老人である。
何だ、私の履歴書もみたいな挨拶になりましたが、面接を受ける時に履歴書を出すで、私も皆様にご御挨拶のさせて頂きます。
了) 豊永高明 拝
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