寝輝子起こして百年目!
寝輝子起こして百年目!
「ド、素人」の書いた、早送りの日本の近現代史
★日本は260年も太平の眠りを貪っていた。
百年続いた戦国時代を統一した豊臣秀吉が、主人・織田信長の重用した、伴天連(キリスト教に宣教師)の祖国、ポルトガルが「日本信侵略の為の先兵だ!」と気が付き、伴天連を虐殺し、追放した。
怒ったポルトガルは、日本を占領しようと考えたが、どうしても勝ち目がない、と思って諦め、東洋から撤退した。
★「何故か?」と言うと、当時の日本は鉄砲の保有数、生産量、生産技術、軍隊の錬度、強さ、どれをとっても世界一と言われていた。
如何に戦国時代とは言え、僅か三十年前に日本の東端の九州の種子島に漂着した、ポルトガル船から買った二丁の鉄砲が複製され日本全土に普及したのは見事である。
★種子島に来たのが1543年。織田信長が長篠の合戦で、3000丁の鉄砲のつるべ撃ちで戦国最強と言われた、武田の騎馬隊を破ったのが1573年。
~たった28年とは驚きである~
次に天下を取った徳川家康は、伴天連と関係なかったオランダのみを、長崎に出島を築き、世界の窓口として260年の天下(日本国)太平で過ごし、独自の文化の花を開かせ安穏に暮らしていた。
戦の無かった時代、戦費の調達はなかった260年は、財力を蓄え、閑なった庶民は文化の花を咲かせ、うつつを抜かしていた。
★御政道の批判は、芝居、歌舞伎の役者のセリフで語らせた、庶民文化に華で、高級武士、僧侶は頭巾で顔を隔して看た。
傘をさせば、人も通れないほど、狭い路地に朝顔の花を咲かせ、愛でる。
九尺二間の長屋の壁に北斎の風景画、美人画を壁に張って愛でる。
しかも、その絵は掛けそば、二杯の値段だったと聞く。
幕末に来日した欧米人が「江戸庶民の美意識は、ヨーロッパの貴族に匹敵する、と褒めたとも言われていた。
そんな太平の夢を見ていた、日本を夢から覚ましたのが、クジラを追って日本近海に姿を現した、米国にペリー率いる黒船である。
(遠洋航海を覚えた、日本の南氷洋の試験捕鯨を、シー・セパードに資金を提供して『反捕鯨』を叫んで、日本の捕鯨を妨害さす、とは何と皮肉なことか!?)。
~寝てる子起こして100年目~
徳川幕府が天下を取って260年、久しぶりの平和、経済は発展、生活は豊かになって
政治家(武士)、町民、百姓は安眠を貪った。
そこにアメリカさんの提督ペルーが黒船四隻を率いてやってきた。
★寝ている子供を起こしたのはアメリカである。
★通商(商売)しようと言ってきたのである。
260年もの鎖国で世界の商業慣習も解らず右往左往している幕府に大砲を撃ちこんで脅かしたので、言われるままに結んだ、日米通商条約は悪名高い不平等そのままであった。
文句を言っても「日本は憲法もなく、法整備の整わない野蛮な国家だ!」。
~「自国民の人権は、自国の法律で守らなくちゃ~」。であった~
(治外法権を適用)
~目覚めてみると!~
怒った、勤皇の志士と言う人々が薩摩藩、長州藩を動かし戊申戦役を戦い、幕府を倒し、明治の維新を成功させ、日本は立憲君主制度の近代国家となった。
260年の眠りから、やっと目を覚まし日本が寝ぼけ眼を擦り、世界を見回せば日本以外のアジア諸国は全て欧米列強(アメリカさん、イギリスさん、オランダさん、フランスさん)の領土(植民地)であったのだ。
隣のチャイナは英国との阿片戦争に敗れ、植民地化されそうな、混乱状態であった。
この情報は幕末で、勤皇の志士が討幕をせんと、活動する志士達に伝わっていた。それが明治維新の改革を速めた、との有力な情報もある。
★四か国艦隊との馬関戦争
このチャイナの悲劇を目の当たりに見た幕末の日本は、列強を追い払おうと長州藩は馬関海峡を封鎖、海峡を航行中のフランス商戦に砲撃を加え通行を拒否した。
~馬関戦争~
文久3年(1863年)5月、長州藩が馬関海峡を封鎖し、航行中の仏商船に対して砲撃を加えた。
約半月後の6月、報復として英、仏軍艦が馬関海峡内に停泊中の長州軍艦や砲台を砲撃し、長州海軍に壊滅的打撃を与えた。
しかし、長州は砲台を修復した上、対岸の小倉藩領の一部をも占領して新たな砲台を築き、海峡封鎖を続行した。
後段: 元治元年(1864年)7月、前年からの海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていた英国は長州に対して懲戒的報復措置をとることを決定。
仏蘭米の三国に参加を呼びかけ、都合艦船17隻で連合艦隊を編成し、同艦隊は、8月5日から8月7日にかけて馬関(現下関市中心部)と彦島の砲台を徹底的に砲撃、各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊した。
★馬関海峡の砲台を四国連合艦隊によって無力化されてしまった長州藩は、以後列強に対する武力での攘夷を放棄し、海外から新知識や技術を積極的に導入し、軍備軍制を近代化してゆくことに積極的になる。
さらに坂本龍馬や中岡慎太郎などの仲介により、慶応2年1月21日(1866年3月7日)に同様な近代化路線を進めていた薩摩藩と薩長同盟を締結して、共に倒幕への道を進むことになる。
★犬猿に仲だった薩摩、長州が,天下国家の為とは言え、和解が成立,一体となって討幕ができたには坂本竜馬が、長州であまっている米は薩摩で不足している。
(砂地でも育成する芋で、米の不足は芋で賄ったのが全国に広がって薩摩芋となって、各地の河の流域の名産品となった。関東の川越芋、関西では淀川の支流の寺田芋等が有名である)。
薩摩藩は九州の果てに位置し、幕府の目もとどき難かった、のを幸いに海外と密貿易を盛んに行い、最新型の武器、弾薬を書入れていた。
そこで坂本竜馬が率いる『海援隊』の船で、長州の余った米と薩摩が手に入れやすい、武器、弾薬の取引をさせた。
『有無合通』の諺通り、主義、主張を超えたのである。
~薩・英の錦江湾戦争~
薩摩藩は錦江湾で英国艦隊と戦いで、英艦は艦長が戦死する等の大損害を被り、湾外に撤退する程の損害を与えたが、彼等の火砲に威力で町を焼かれ、火砲の威力を「嫌!」と言うほど味わった。
薩摩藩は撤退して英国に賠償金を払って和解した。 以後の薩摩は英国に学び、『殖産振興』で産業を興し、経済力を強化、『富国強兵』で、軍備の近代化を促進した。
戦い敗れた両藩は産業を興し財力を蓄え、彼等の兵器を買い、彼等の技術を学び、制度疲労の幕府を倒し明治新政府を創り近代国家とした。
★近代国家となった日本は封建主義の農業国家から、近代的工業国家へと変身して、不平等条約の改定に努めた。
~戦いに負けた国に学ぶのは「日本国民の血に流れる遺伝子だろうか?」~
★大東亜戦争に敗れた米軍の強さの原因は、物量(戦闘機の数、弾薬の豊富)の豊富さ、つまり「生産力の差だ!」 と気が付いた若者達は(陸士、海兵の繰り上げ卒業をした)、多くは敗戦直前の彼我の差を、学ぶべく、伝手を辿って争うようにアメリカに渡った。
~フルブライト奨学金~
彼等も快く迎え、フルブライトが奨学金を創って学ばせた。 彼等はアメリカ文化に興味を持って、しかも貪欲に学んで日本に持ち帰り、帰国して日米の生産力差を、興奮して身振り手振りで話聞かせた。
例えば日本のドリルは垂直に穴を明けるだけ、しかも一個づつである。
アメリカのドリルは、縦横斜めに一度で空けるんだ。 終戦時は小学(国民学校)6年だった僕はアメリカに行く事はできなかったが、伝手を求めて帰国して彼等に聞いて回った。
彼等も快く、誇らしく自分達の経験を語り聞かせた。
この好奇心が日本の高度度成長に繋がり、世界二位の経済大国となったのである。
★福沢諭吉の「脱亜論」と西郷隆盛の「征館論」
誤報と言うか?
意図的に歪曲したか?
アメリカが占領中に浸透させたか?本来の福沢諭吉の意図とは違った方にマスコミによって解釈されたのだ。
★西洋の科学文明に対抗すするには、アジアの大国、清国、清国に朝貢する朝鮮に、欧米先進国に平等に外交交渉がする為には、日本の明治維新をモデルに近代国家を創設、殖産興国、軍隊の近代化国家となって、三国共同で当たろう。
と福沢個人で清国、朝鮮の留学生に多大な援助を与えながら説得した。
だが、朝鮮は創始国・清の媚び、あまつさえ、朝鮮を支配下に置こうと、南下するロシアの思惑を気にする等の、日本を小国と見縊った行動を繰り返し、何らの誠意も見られなかった。
阿片戦争に敗れ、英、仏に、植民地化されそうな清国、それに従う朝鮮を見限り、「日本は、アジアの悪友と手を切って、西洋と仲良くする」と、言うのが趣旨である。
★一方の『西郷隆盛の征館論』は、征伐の『征』ではなく、正しく導く、の『正』である。
これを、敗戦後の自虐思想で、日本の英雄『隆盛』、『諭吉』を貶める、日本のマスコミが捏造したのだ。
★マッカーサーの置き土産がこれ程までも浸透しとぃるとはおどろきである。
★チャイナと朝鮮には苦労するぜ!
こんな苦労をして近代化した日本が、チャイナの北京の清国政府に「ロシアが攻めてくぞ、日本の維新を見習って、近代化をして富国強兵を急ぎぎなさい!」と清国に忠告した。
だが、清国は、大国気取りで、「煩い!」「野蛮人は黙っていろ、」。であった。
チャイナの周りは、『東夷 西戎 北荻 南蛮』と言って、「全て野蛮人だ!」と怒ったので戦争になっちゃったんだ。 朝鮮半島を戦場として。
その頃のチャイナは大国でも「眠れる獅子」と言われていた。 世界の大国であるのに、アジアの小国・日本が勝利した。
★お蔭で朝鮮は、創始国・清から独立して大韓帝国になった。
勝った日本が、独立して大韓帝国となった朝鮮に「君達の国も日本の明治維新を見習って、近代国家を創り、世界の大国に対等に渡り合わなければ」、と口説くが、
「そんな事をしたら清国が怒らないか?」、
「ロシアはこう言っているよ」。と言を左右に筋の通らぬ事ばかり言う。
明治維新で日本が近代国家に生まれ変わったと、正使、国王に謁見したしたければ、猿マネの衣装を清国流の「衣冠束帯に改めたで出直せ!」と追い返した。
怒った国民の間に「征韓論」湧きあがった。
★西郷隆盛が「自分が行って話を着けて来る」と言うが、世論は行くなら軍艦に兵隊も連れて行け。
と言うので「もし単独で私が行って殺されたら、朝鮮征伐の口実ができる」と主張したが、「今は国内整備の時、外国とトラブルを起こしている暇はない」、と閣議で反対され、政府役職を辞任、地元薩摩に帰ってしまった、のが西南戦争の遠因であった。
~日韓併合以外の道はなかった~
★朝鮮国内世論も紛糾、朝鮮人の大部分の者は「俺達の国は自分達で議論が纏める事は不可能だな~」。
と思って進歩思想の人々が玉均を中心に集い、一進会なるものを結成し、改革を進めようとするが国論は纏まれない。
「俺達の国は自分達で議論を纏める事は不可能である。最早日本に併合して頂くよりの道はない、」と頼み込む。
仕方なしに合法的な手続を進め、日韓併合条約が完成。
欧米列強も「良い事だ」と、これを承認した。
反対したのは滅亡寸前の清国だけであった。
★北のロシアは代々の皇帝が不凍港を求めていて、混乱に乗じて南下してきた。
ロシアと満州を原野で死闘を繰り替えし、辛勝したのが日露戦争である。
戦が長期化すれば国力の劣る日本が不利、考え、開戦前にアメリカに留学経験のあり、米国大統領・ルーズベルトと親交があった者を特使として派遣、停戦の調停を頼んだ、と聞く。
~日本の維新の元勲達の政治感覚は見事であった~
現在の我々は見習う必要がある。
不平等条約の改定を急ぐ日本は、鹿鳴館(西洋建築)なる物を創り、指導層の奥方達にダンス、西洋料理のマナーを学ばせ、青い目の異人さんお機嫌を取って、「日本も近代化は出来たしょう、もう不平等条約は改定しようよ」、と頑張りました。
その甲斐あって、不平等条役は改定できた、と言いたい所だが、改定できたのは随分たっての事だったよ。
★強敵ロシアが攻めて来たぞ!
北の大国ロシアは、世界一の陸軍国で、同じ世界一のバルチック艦隊を持っていが、ロシアは北に国で冬になると港は凍って折角の艦隊も役にたたない。 どうしても凍らない港が欲しくて南に攻めてくる。
イギリスもアメリカもロシアが来ると怖いので、ロシアがでてきたら「お前も困るだろうから、軍艦を売ってやるから日本に、戦え!」、と言う。
(軍艦をただでくれるんじゃない。金を払って買うんだぜ、イギリスは商売しているんだよ、狡いと思はない?)
日本は1853年に浦賀に来航した黒船を見て(1853年浦賀来航)驚いた日本人が、たった50年で英国から買ったとは言え、黒船の軍艦どうしの戦いで、当時世界一と言われたバルチック艦隊を全滅させた(1905年)のだから、欧米列強の日本を恐れるのも無理はない。
★日本海海戦の主力艦は全て輸入、旗艦三笠は英国制、15年後には戦艦長門、1920年(大正9年)、たった15年で建艦技術も世界水準は驚きである。世界が恐れたのも無理はない。
陸軍は満州を戦場に、海軍は日本海で、世界の大国ロシアと日本は戦争をして勝っちゃった。 慌てたアメリカは「もうその位にしておけよ!」と仲裁を買って出た。
世界の大国、『清国』と『ロシア』を負かして、日本も世界の一等国になったしまった。
★一等国になってみると!?
一方のヨーロッパではイギリス、フランスがアフリカやアジアに植民地を増やし、住民を奴隷とし、好き勝手な金儲けをいる。
新興勢力ドイツが「俺も仲間に入れろ!」と言って来て、断ったら世界戦争(第一次世界大戦)になって、負けそうである。
イギリスはアメリカに「応援してくれなければ負けちゃうよ」、泣き付く。
アメリカは「日露戦争で仲裁してやった、今度は俺がドイツと戦争なる。俺達に味方しろ」と恩着せがましく言ってくれ!と言ってきた。
仕方なしか? 日清、日露の戦役での勝利で自信がついてか? 日本もドイツに宣戦布告。ドイツがアジアに持つ植民地、青島や南洋諸島を攻めて占領、ヨーロッパ戦線に、武器、弾薬、食糧を送る英国の輸送船を脅かす、ドイツの潜水艦・Uボート退治に地中海まで水雷艇を派遣し守った。これを第一次世界大戦と言う。
★日本は世界初の人権国家だ!
第一次世界大戦で連合国として戦勝国となった日本は、戦後に創られた『国際連盟の常任理事国』となった。 総会で『国際連盟は人種差別を撤廃するべきだ』する、提案し、多数決で決定となる筈が、アメリカの逆提案で「こんな重要事項は前回一致を必要とする。」、で否決、廃案になってしまった。
★明治維新で近代国家となった日本は、国際関係覚えんと、戦争をするにも、交際法を片手に銃を片手に戦をした。 特に捕虜の扱いには気を使ったようだ。 日露戦争は帝政ロシアと戦ったのである。国家のものは皇帝陛下のもので、兵士は皇帝陛下の為に戦うのである。
日露戦争に敗れ、ロシア革命が起こる。
革命前夜で兵士の士気も低かったか、降伏してくる兵士も多かった。
もちろん『旅順要塞攻略戦』のように、頑強に抵抗し日本軍に多くの死傷者をだし、苦戦した戦いもあった。
日本軍の捕虜の扱いは人道的だ、との噂がロシア軍の間に広まって、降伏してくる兵士は、武器を捨て、両手を上げ、「松山!」「松山!」と叫びながら、日本陣地に駆け込んできた、と聞く。
日本は四国の松山に捕虜収容所を造って、そこに捕虜を送って収容した。だが、収容所と言っても塀で囲ったものではなく、市内の行動は自由であった。
(司馬遼太郎の坂の上の雲による)。
そこで戦後釈放されても故郷に帰らず、日本に居付いた者も多かった、と聞く。
彼等は自分達の食べるパンを売る事で生計を建て、職業として、「パン屋」を始めた事が日本の食文化の影響を与えた、とも言われている。
それは第一次世界大戦のドイツの捕虜も同様に影響を与え、戦後捕虜は釈放されたが帰国せず日本に残って『パン屋』を営む者も多かった。
~そんな人道的な日本人がシナ事変から、当然に豪逆に変わっていく訳がない~
殊に、旅順要塞が陥落し、日本の乃木稀輔・司令官と、敗れた降伏しるステッセル将軍の会談は、ロシアは日本の攻撃の激しさを称え、日本はロシアの守備が固かった事を称えるのだ。
~同じ軍人として相手の健闘を称える歌にもなっている。歌詞の全文を披露する~
作詞:佐々木信綱 作曲:岡野貞一
小学唱歌(明治39年6月)
1
旅順(りょじゅん)開城約成りて
敵の将軍ステッセル
乃木大将と会見の
所は何処水師営(いづこすいしえい)
2
庭に一本棗(ひともとなつめ)の木
弾丸(たま)あとも著(いちじる)しく
崩れ残れる民屋(みんおく)に
今ぞ相見る二将軍
3
乃木大将は厳かに
御恵(みめぐ)み深き大君の
大みことのり伝うれば
彼かしこみて謝しまつる
4
昨日の敵は今日の友
語る言葉もうちとけて
我は讃(たた)えつ彼(か)の防備
彼は讃(たた)えつ我が武勇
5
かたち正して言い出でぬ
「この方面の戦闘に
二子を失い給いつる
閣下の心如何にぞ」と
6
「二人のわが子それぞれに
死所を得たるを喜べり
これぞ武門の面目」と
大将答え力あり
7
両将昼食(ひるげ)ともにして
なおも尽きせぬ物語
「我に愛する良馬あり
今日の紀念に献ずべし」
8
「厚意謝するに余りあり
軍の掟に従いて
他日我が手に受領せば
長く労(いたわ)り養わん」
9
「さらば」と握手懇ろに
別れて行くや右左
砲音絶えし砲台に
閃(ひらめ)き立てり日の御旗
シナ事変の南京の二十万人も虐殺なんてする筈はない。
~チャイナの謀略、宣伝は次章で詳しく述べる~
次号に続くので「請う!ご期待!」
0コメント