我が人生悔いあり

第一章 揺籃期(少年時代から学生時代)

 はじめに

敗戦で焼け野原にされた国土を復興し、世界の奇跡と言われる高度成長を成し遂げ、世界第二位の経済大国を創り上げたのは俺達企業戦士だ。

『俺はその達企業戦士一員だ』という責任感と自負心で、必死に働いて人生を過ごした男である。  

まもなくバブルが発生し、

バブルが弾け、築き上げた一切の名誉も財産もなくした。

社会から『高齢者』と呼ばれ、社会の『扶養家族』(不要家族)と呼ばれ、謂れなき差別を受け、経済社会から追放され、惨めな年金生活者として社会のお荷物として人生を過ごしている男達。

『国滅び我がこと終わる!』と隠遁生活に入る程の悟りも開けず、

『こんな馬鹿な事があるか!』

『こんな日本を造るため身を粉に働いたのでは無い』

と迷いながら人生を終わろうとしている、昭和八年生まれの男が送った人生を通して、戦後(第二次世界大戦)の日本社会の推移を思い出してしてみたい。

 銃後の小国民

昭和一五年は『金鵄輝く日本の、栄えある光身に受けて・・』の歌に代表される『皇紀二千六百年祭』の祝賀で国中が沸き上がっていた。『尋常小学校』が『国民学校』と名を変え、国中は戦時体制が強化され私達は銃後の小国民となり、

『男女七歳にして席を同じうする無かれ!』

と教えられ学校は男組、女組に分けられ戦時体制の教育が始まった。その時私は国民学校の二年生になった。そして毎朝、

『私達は天皇陛下の赤子です!』

『私達は大日本帝国の銃後の小国民です!』、

と唱和し、四海の人(アジアの人)を導きて、

「アジアを侵略して数百年の欧米を打ち倒し、アジア人を解放して日本人の指導で世界平和を築くために尽くそう」と誓い、

「東亜侵略百年の野望は、此処に覆す、今、決戦の時来る・・・・・・」

と歌いながら銃後の小国民は育てられた。

当時の世界の有色人種国はすべて国家の植民地であった。

具体的に言えばインド、ミャンマー、マレーシア、シンガポールは『英国領』。

インドシナ半島のベトナム、ラオス,カンボジアは、フランス領、『仏領インドシナ』。

南方諸島呼ばれ呼ばれた、インドネシアはオランダ領、『蘭印』。

フィリッピンは『アメリカ領であった。』

大東和戦争が始まり、フイリピンだけが、

『この、戦争にアメリカに協力して、勝利をした後に独立国させてやる。と、アメリカ政府の約束を取り付けたのである』。

だが、フリッピンはアメリカに騙されたのは二度目である。

即ち、アジア諸国で独立国は日本とタイ国だけであったが、それも英、仏に挟まれ英、仏の緩衝地帯の役割になっての事で、アジア諸国が全て欧米列強の植民地であったのが、大東和戦争が日本の敗戦で終了した後も、これ等の諸国は独立戦争を戦い、始めて独立を勝ち取ったのである。

日本経済新聞の平成一七年九月三0日の文化欄に出ている『帰らなかった日本兵』を読んでみると良い。

こんな事をいうと、私の事を、偏狭な右翼か国粋主義者と思うかも知れないが、どちらでも無い。何でも、分類したがる現在社会で、強いて言えば私は、『保守系、無党派層』である。

それでも我々は、この歴史の事実を厳粛に受け止めなければならない。

 強制疎開と飢えの経験

昭和一九年八月三十日一二時三0分発、名古屋行急行列車に乗り、私達は、東京駅を出て京都に向かった。強制疎開とは言え初めて東京を離れるのだ。まだ見ぬ千年の都『京都』はどんな所か、町から見えると言われる、『比叡山』、『清水寺』、『平安神宮』、『琵琶湖疎水のインクライン』等、写真と書物でしか知らない町に期待と不安で胸がいっぱいだった。両親と女二人男三人の五人兄弟で、七人家族、長男の僕は国民学校の五年、三男の弟は、まだ、赤ん坊で二歳であった。

乗り継ぎで名古屋駅に着いた時は既に夜の八時、二才の弟が皮のトランクの上に寝かされていたのが妙に印象に残っている。

京都に着いた時は既に深夜、これから悲惨な生活が待っているとは、その時は知るよしも無かった。

当時の東京と京都での生活慣習の違いは、今では考られないいほど大きかった。

いわんや戦争中の事、閉鎖的な土地で土地勘も無く、知人も全くいない中で、生活物資の配給を受けるにもままならぬ状態であった。その上に敗戦間近で食料の配給は『遅配』が珍しくない。

それを補う『闇物資』を調達する為の土地勘や、知人も無い我が家族は、鴨川の川原へ行き、始めの頃は食べられる草を摘んで食料の足しにした。

戦局は悪化の一路をたどり、空襲は激しさを増し、鉄道が破壊され、食料は『遅配』が『欠配』となり、それが続いた。初めは、ハコベ、ヨメナ等、食べられる『草』から、やがて毒に成らぬ『草』なら何でも食べた。空腹は日常化し,『ひもじさ』に耐える毎日であった。

国民学校六年に成っていた私は,

『今は非常時、これに耐えるのが戦争に勝つ事だ!』と空腹に耐えたが、まだ二才の弟はそんな事が分かる筈も無い。空腹に耐えられず、

『パン、みかん!』

と、当時の配給の食べ物で名前を知っているだけを言って泣いていた。母が出る筈の無い乳房を与えるが、出ないと分かると又泣き出す。 

私は涙をこらえ布団を噛んで泣いた。

空腹の苦しさは経験した者で無ければ分からない。

これを救ったのは、敗戦後アメリカから食料援助でもらった『キューバー糖』、『豆粕』、『なんば粉』、『メリケン粉』と呼ばれた『小麦粉』であった。こんな『ひもじさ』を二度と経験したくない、させたくない。これが私の人生の原点である。

戦後、暫くして流行った歌に

♪ 星の流れに~、身を占って ♪ 何処をねぐらに 今日の宿と、・・・・ いう歌謡曲が流行った。

その二番の歌詞に、次の様な一節がある。

♪ 「飢えて、今頃、妹は何処に?・・・・」 これを聞くと今でも涙が出て止まらない。

お客の接待で行くクラブでお客が歌えば、涙を隠すのにトイレに行く振りをして席を外して泣いた。ホステスの女の子が歌えば、その歌は嫌いだ、止めろ!と歌わせなかった。

★何時の頃か忘れたが、産経新聞に『遠すぎた島』というガダルカナル島の戦記が連載された事があった。その中で、若い将校の奥さんに当てた遺書には必ず『自分の子供は空軍か海軍に行かす様に』と、書いていたそうである。

記者の解説は次のように書いてあった。

これは米軍が死んだ日本軍将校の戦意を調べる為に、持ち物を調べた結果、遺書は殆ど同じ内容だったらしい。

自分達、軍人は、敵の弾に当たり死ぬのは覚悟の上だが、この戦いは飢え死である。これだけはさせたく無い。飛行機の墜落、軍艦の沈没は一瞬で死ぬのである。

『飢え』とはそれ程辛く悲しい物である。これは経験した者しか分からないだろう。

これを書いていても涙が止まらない、タオルが離せない!

父親が木炭自動車の燃料統制会社の仕事をしており、東京と大阪を行き来していた。その関係で、京都なら爆撃に対しては安全だと、東京から京都へ疎開して来たつもりの一家が、軍の命令で又疎開する事になった。

それならいっそという事で、木炭の産地である和歌山の山村へ疎開することにした。当事の和歌山は非常に遠いところで、聞いた所によるとかなりの『僻地』であった。

それでも畑も有り、食料事情は良い、鴨川の川原での雑草を摘んで食べで命をつないで居た一家は、一も二も無かった。・・・・・・・・・・・・・中略

軍の命令はすさまじく『疎開用の引越し資材、』『一五トン積の有蓋の貨車』に梱包用の資材から人手までが割り当てられた。

我が家は和歌山行きの準備が整い出発の日が決まった。現在でも和歌山には貨物の直通列車は少ない。貨車の連結換えが何度有ったか知らないが、荷物が和歌山に着くには、かなりの日数が必要だったと思う。

私達は貨物と人の到着日を合わせて出発した。ところが大阪の天王寺まで行った時、和歌山大空襲が有り鉄道は破壊されそこから先は行く事は出来ない。一家は止む無く、家財を送り出して空き家になった我が家に、手荷物だけを持って帰ってきた。

家財道具は積んだ貨車ごと爆撃で無くしても、我が家は住所が和歌山に転入が済まないので、戦災被害者の援助も受けられない。慣れない土地でしかも父親は留守がちな一家の生活は悲惨なものであった。この苦労は敗戦まで続いた。

敗戦

純心な銃後の少国民が、国民学校六年の時に八月一五日玉音放送を聞いても、敗戦の事実を理解するのには、かなりの日時を要した。必勝を信じ、『鬼畜米英』と信じ込み、戦争に負けた時には一億国民みな死ぬ時だ、と信じ込んで育った一人の少年である。

 八月一五日終戦、自分達はどうなるのか誰に聞いても分からない。沖縄の小学生が手榴弾で集団自殺した話を聞かされていたのである。

学校の先生に「僕達いつ死ぬんですか?爆弾の配給は何時ですか?」と聞いた。

「もう戦争は終わったんだ、これからはアメリカと仲良くするのだ、アメリカは民主主義でよい国だ」これには、先生はどうかしていると何度も顔を見直した。しかし、昨日と同じ先生であった。

教科書の『勅語』を始め、忠君愛国の読物は、すべて墨で塗り潰すか、切り取り破棄された。

 私は「こんな馬鹿な事があるか、何か間違っている、忘れてなるか!」と切り取り破棄された部分を記憶して頭に叩き込んだ。しかし時間と共に敗戦の事実を受け入れざるをえなかった。

まもなく占領軍がやって来た。彼ら乗っているジープ、車輪を一0個もつけた大型トラックを見た。日本は煙をはきながら走る『木炭自動車』、『馬車』、『牛車』、人力で運ぶ『大八車』自分達と比べ何とアメリカの物量は凄いと感心すると同時に、戦前の日本の指導者はこんな事を知っていたのか?と疑問を抱いた。

子供心にもアメリカと日本の国力差が分かってきた。

私は「何て馬鹿な戦争をしたもんだ!」と思う様になった。

同時に我々が教えられていた、『精神力第一主義』だけでは駄目であり、合理的に物量を使用しなければ成らぬことを痛感した。

~復興の始まりと日本人の自信と過ち~

我々の世代は先ず飢えを克服し困窮生活に堪えながら、アメリカの豊かさに憧れ『豊かな国、アメリカ』を手本に『欧米に追いつけ、追い越せ!』を合い言葉とし、日本をより豊かな国にするのは我らの仕事と言う『自負心』を糧に只ひたすらに働き続けた。何時の間にか日本は『世界の経済大国』と言われる様になったので有る。

ふと気が付くと政治、経済の指導的立場に有る人達の発言や、マスコミの論調に、

『日本は経済戦争の勝利者だ』

『日本の国土全体の土地価格評価はアメリカの五倍だ、日本にはそれだけの値打ちが有る!』。

『我らは既に欧米に学ぶ物は無い!』等、不遜としか言いようの無い物騒な発言が目立ち始めた。

マラソンで言えば先頭グループに入り、そして先頭に立った。

今までリードしてくれた先輩格の仲間が『強力なライバル』となり、目標を無くしたランナーと言うところか?日本経済は『バブル』に突入し『あっ』と言う間に『バブル』は弾け、そして平成の底無し不況に突入した。

その間にグローバル化された世界経済は、先ず金融機関を直撃した。

『バブル』が弾け『土地と株』の急激な値下がりによる、巨額の不良資産を抱えた金融機関が、欧米型のルール・『BIS』(国際決済銀行)による規制。国際業務をやる銀行は総資産の八%以上自己資本がなければならない(国内業務で四%)というルール。

自己資本の低かった邦銀を直撃した。

『BIS』規制の適用により国際競争力を無くした。今や国際金融資本の占領下に近い状態で有る。

円高の中で、世界に誇る製造業も高騰した土地や人件費を嫌い『賃金の安い隣の人口大国』中国へどんどん工場は移転され、日本の空洞化は凄まじい勢いで進行し経済戦争は正に総崩れである。

付加価値の低い商品は、中国や東南アジアなど発展途上国に任せて、

『日本は技術水準が高く、他所のまねる事の出来ない、高付加価値のある商品に特化すれば良い』

など、寝言の様な事を言う知識人もいる。

工場を持たず生産技術は育たない。底辺の技術なくして、高度技術がある訳が無い。

日本人にも頭の良い人間、頭の悪い人間が混ざっている。中国人でもアメリカ人でも同じである。何事もバランスが大事である。技術水準の高い高付加価値の商品を作れる人だけ働き、他の日本中の人間を扶養家族にして養っていくのか?

『知識人と言う無知な人』、

マスコミと言う『野次馬』諸君。

これからの日本は何を如何すれば良いのか?よくよく考えなければ成らない。

『今までの日本の何が間違っていたのか?』

『これからの日本は如何すれば良いのか?』真剣に考え直す時ではないか。

 社会の構造を知る

戦争中の小学生時代、負ける事など無いと信じていた、『大日本国帝国の敗戦』。占領下の中学生時代、初めて見たアメリカ兵。敗戦時の、大人達の態度の急変など、社会の変化は余りにも大きかったが、私は、何時(いつ)の間にかそれに対応し、同志社高等校に入った。

クラブ活動はサイエンス部に入った。サイエンス部は物理、化学、生物、地学の分野に分かれていた。私は幼い頃から空の星や月を見る事や、天気に関心があったので地学部に所属した。

好きだった事もあって良く勉強したので、超学年式授業の幾何と地学は全校でただ一人『一00点』を取った。

この教科の担当は同じ先生で『村田先生』言い、京大卒業で教師の一年生である。『村田先生』にとって、私は高校一年生で始めての生徒だった。

やがて、村田先生は父親が創立者の一人である『近江兄弟社学園』へ帰っていった。

そして学園での始めての高校一年の生徒が『妻、弘子』である。この先生の仲人で現在の我々夫婦がある。

そんな事があって二年生で地学部の部長になり、学校のクラブ予算会議に地学部代表で出席する事になった。地学は天文、気象、地質の三つに分かれている。どれに重点を置く活動をするか議論の結果、参加希望者の多い天文と地質に重点を置く事になった。

地学は、地質調査、鉱物採集の旅行など個人負担の経費が多いので参加者が限られる事もあり、当時は日本全体が貧しく学生が旅行など出来る社会環境でなかった。メリハリを付け天文に重点を置き、反射式天体望遠鏡を設置する事にした。

会議出席の事前に、内部で過去に他部が獲得した予算の実績、使い道を調べてみた。体育会系の獲得率が多く、使用内容を調べると試合前の飲食費が多い事が分かった。

当時は社会も貧しく、『すき焼』など我々めったに口にする事も出来ない。それを試合に行くと言っては食べ、試合に勝ったと言っては、よく部費で食べている。そんな、噂に羨望もあり、

「そんな事に使う金が有るのなら、我が部の学習の為もっと金を回せ」

と天体望遠鏡の必要性を説き予算を請求した。

ところが、先生は、

「野球やスポーツが強いと新聞が記事を書いてくれる。そうすると学校の宣伝ができ、受験生が増える。私学は経営が苦しくそれも必要なのだ。」

「第一空の星や月を眺めて何になる?」

「何の為に石ころを拾ってくるのか?」

等々、「これが学校での議論か?!」と疑いたく成るような事を平気で言う始末である。

★もっとも、その頃は社会全体が貧しく食べるに精一杯の時代で『天文学』などに関心はなく、部で買っていた『空と望遠鏡』と言うアメリカの翻訳紙が、雑誌が売れず三ヶ月で廃刊になる状態であった。この雑誌には現在の三段式宇宙ロケットの基本設計が連載で詳しく説明され、ロケット打ち上げに解決しなければ成らない問題や、予算まで詳しく説明してあった。

「宣伝が必要なら、京都の学校で一番大きい望遠鏡を買ってくれ。京都中の中学校を回りそれ位の受験生は集めてくる」と私はやり返した。

それを聞いていた校長先生が私を校長室に呼び、

「来年は学校の設備として予算を付けるから、生徒募集に回らなくても良い。余り喧しく言わず待っていろ!」と言う事だった。

次の年、『口径二0センチの赤道儀付きの反射望遠鏡』が設置された。勿論、京都で一番大きい物である。

話は変わるが私が、私が高校一年の年に朝鮮戦争が勃発した。

しばらくして小松製作所がアメリカ軍から迫撃砲の砲弾を一発千円で受注したと言う新聞記事を見て驚いた。当時の中学卒業卒の初任給は二千五百円から三千円であった。

つまり私が一ヶ月働いても『ドカン、ドカン、ドカン』と三回迫撃砲を撃ったら終わりだ。 

なんと戦争は金の要るものだと思って驚いた。そう言えばシナ事変の時の日本軍は直ぐ『弾が無い!突撃だ!』と、いっていたという話を思い出した。

「二度としたくない、させたくない、ひもじさの経験」

「負ける筈のない神国日本の敗戦」

「学校も商売だ!」

「戦争は金の掛かる事だ!」この四つの事がその後の私の人生観に大きな影響を与えた。

同志社高等校に入った。

クラブ活動はサイエンス部に入った。サイエンス部は物理、化学、生物、地学の分野に分かれていた。私は幼い頃から空の星や月を見る事や、天気に関心があったので地学部に所属した。

好きだった事もあって良く勉強したので、超学年式授業の幾何と地学は全校でただ一人『一00点』を取った。

この教科の担当は同じ先生で『村田先生』いい、京大卒業で教師の一年生である。『村田先生』にとって、私は高校一年生で始めての生徒だった。やがて、村田先生は父親が創立者の一人である『近江兄弟社学園』へ帰っていった。そして学園での始めての高校一年の生徒が『妻、弘子』である。この先生の仲人で現在の我々夫婦がある。

そんな事があって二年生で地学部の部長になり、学校のクラブ予算会議に地学部代表で出席する事になった。地学は天文、気象、地質の三つに分かれている。どれに重点を置く活動をするか議論の結果、参加希望者の多い天文と地質に重点を置く事になった。

地学は、地質調査、鉱物採集の旅行など個人負担の経費が多いので参加者が限られる事もあり、当時は日本全体が貧しく学生が旅行など出来る社会環境でなかった。メリハリを付け天文に重点を置き、反射式天体望遠鏡を設置する事にした。

会議出席の事前に、内部で過去に他部が獲得した予算の実績、使い道を調べてみた。

体育会系の獲得率が多く、使用内容を調べると試合前の飲食費が多い事が分かった。

当時は社会も貧しく、『すき焼』など我々めったに口にする事も出来ない。それを試合に行くと言っては食べ、試合に勝ったと言っては、よく部費で食べている。そんな、噂に羨望もあり、

「そんな事に使う金が有るのなら、我が部の学習の為もっと金を回せ」

と天体望遠鏡の必要性を説き予算を請求した。

ところが、先生は、

「野球やスポーツが強いと新聞が記事を書いてくれる。そうすると学校の宣伝ができ、受験生が増える。私学は経営が苦しくそれも必要なのだ。」

「第一空の星や月を眺めて何になる?」

「何の為に石ころを拾ってくるのか?」

等々、これが学校での議論か?と疑いたく成るような事を平気で言う始末である。

もっとも、その頃は社会全体が貧しく食べるに精一杯の時代で『天文学』などに関心はなく、部で買っていた『空と望遠鏡』と言うアメリカの翻訳紙が、雑誌が売れず三ヶ月で廃刊になる状態であった。

この雑誌には現在の三段式宇宙ロケットの基本設計が連載で詳しく説明され、ロケット打ち上げに解決しなければ成らない問題や、予算まで詳しく説明してあった。

「宣伝が必要なら、京都の学校で一番大きい望遠鏡を買ってくれ。京都中の中学校を回りそれ位の受験生は集めてくる」と私はやり返した。

それを聞いていた校長先生が私を校長室に呼び、

「来年は学校の設備として予算を付けるから、生徒募集に回らなくても良い。余り喧しく言わず待っていろ!」と言う事だった。

次の年、『口径二0センチの赤道儀付きの反射望遠鏡』が設置された。勿論、京都で一番大きい物である。

話は変わるが私が、私が高校一年の年に朝鮮戦争が勃発した。

しばらくして小松製作所がアメリカ軍から迫撃砲の砲弾を一発千円で受注したと言う新聞記事を見て驚いた。当時の中学卒業卒の初任給は二千五百円から三千円であった。

つまり私が一ヶ月働いても『ドカン、ドカン、ドカン』と三回迫撃砲を撃ったら終わりだ。 

なんと戦争は金の要るものだと思って驚いた。そう言えばシナ事変の時の日本軍は直ぐ『弾が無い!突撃だ!』と、いっていたという話を思い出した。

「二度としたくない、させたくない、ひもじさの経験」

「負ける筈のない神国日本の敗戦」

「学校も商売だ!」

「戦争は金の掛かる事だ!」この四つの事がその後の私の人生観に大きな影響を与えた。

~事志と異なる~

奨学金を貰っても生活費は要る。高校は二年で休学し、働いて家計を助ける事にした。

しかし村田先生が、

「勉強は一度中断したら、復活は非常に困難だから学校は絶対に辞めるな、定時制高校の夜間に行け。夜間部は四年だが、四年に編入させてやる」。

と言ってくれた。定時制の夜間部は四年制で商業部しか無かった。

京大の宇宙物理学を目標にしていた私は、三年生になったら受験に専念すべく、卒業単位はほとんど取得していた。しかし単位は足りても、

『簿記、そろばん』など全然してないので、

『商業科は無理だ!』と断ると、先生は、その話もつけてやると言われ、同志社定時制高校の商学部へと編入する事になった。

私は一年もすれば親の会社は立ち直り、学校は続けられると思っていた。然し、世の中はそんな甘い物ではなかった。結果としてこれは正解で、私の社会を見る視野は広がった。

その頃の定時制高校は、前日制高校の同級生で成績不振や素行不良で、中退した者達が何人も居た。

また、予科練や少年航空兵の経験者、満州からの引揚者の子弟、一旦社会にでたが学歴の必要性を感じ勉強している者など、ずいぶん年齢の幅もあり戦後の混乱期の続きであった。

私など、『坊や、坊や』と可愛がられていたものである。

学校は午後五時半に始まるが、一時間目は殆ど出席者が居らず、いるのは職業が公務員の生徒ぐらいの者で、二時間目頃から増えてきて、三時間目にやっと揃うのが普通だった。

殆どの生徒が夜間部に行っている事は職場には内緒であった。五時に帰るような者は職場に必要が無い。それがバレルと職場からクビになる危険がある。そんな時代であった。

★困窮学生が多いと言うので二時間目と三時間目の間に給食にミルクが出た。『バケツ』に『ミルク』を持ってきて配られると,何杯も飲む生徒がいた。

また、年暈の生徒は喫煙も教室でさえなければ咎めなかった。

定時制の一年間は、私は、社会にはこんなに違う環境で育った、価値観も違う人々が存在する事を初めて知って、誠に貴重な体験であった。

仕事はいろいろ経験した。中でも儲かったのは、今の『ちり紙交換』である。

当事は『クズ屋』と言って鉄クズ、ボロクズ(繊維の古いもの)、紙クズ、古雑誌、古新聞、空き瓶、『ガラスの割れたクズ』など、家庭や工場から出る『クズ物』を買い集める商売があった。

当時は『問屋』と言う集荷専門の店が有り、そこへ持込み金に換えるのである。

『問屋』は買取った『クズ物』を分類して、『資源』とし専門の『再生原料屋』に売るのである。

今から思えば『廃品をリサイクルし資源に変える』社会システムが良く整備されて居たものである。

『クズ屋』に対し『バタ屋』と言うのがある。これは家庭や職場の『ごみ箱』を漁って前述の『資源ごみ』を集めるのである。

この『クズ屋』をしていると友達に話すと『バタ屋』と一緒にされるので嫌だった。然し、朝鮮戦争のお陰で『クズ鉄』を始め原料は何でも値上がりして、商売は儲かった。生活は楽になった。父親も帰り一家は平成を取り戻した。しかし、朝鮮戦争は停戦となり『鉄屑などの資源』は暴落し、この商売も終わる時が来た。

しかし、我が家の生計は、何時の間にか子供達(私と三つ下の弟)で支える事に成っていた。

当事の京都の主な産業は染物と織物であった。福井、石川、富山、などの北陸方面から白生地を、仕入れそれに染色を施し、着物は京友禅、洋服地のプリント等を全国に卸すのが京都の主な産業である。京都で仕事をするのであれば、繊維に関係しなければ駄目だと教えてくれる人が居た。

その頃になると、私達にもその位の人脈が出来ていた。

家庭や職場で必要の無く成った不用品が、廃品として業者が回収すると、『再生資源』と言う商品になる。それを必要とする事業者に持って行き又売る。『有無相通ず』商売の原点である。これはいかなる商品でも同じである。

白生地は『ムシロと縄』で梱包され、染工場に入荷する。開梱された白生地は幾つかの工程を経て染め上がり、室町筋の商社に戻され、地方の客に発送される。染工場で不要になった『ムシロ』は商社では必要であり、ここに私達の仕事がある。

私達は染工場や室町の白生地屋を回り、空いた『ムシロ』を買い集めた。しかし最終ユーザーである商社に売る為には『縄や包装紙』など関連商品を揃えなければ成らず、それには資本が足りない。

あきらめて、室町筋の『荷作り材料屋』に『ムシロ』を専門に卸す『ムシロ屋』の商売を始めた。

 学生生活

話を学生生活に戻す。全日制の高校二年も終わりに近づき、退学届けを出さねば成らない日が迫ってきた。覚悟はしていたものの、やはり『いざ』と言うと学生生活に別れを告げるには未練があるのか、せっかく書いていた退学届けを幾日もカバンに入れ、出さずに持って歩いた。

学校に行く、もう最後の日思い切って退学届を学生課に提出し、逃げるように学校を出て、近くの川原で何時間も泣いていた。泣き疲れ我が家に帰り、すべてを忘れ、新生活に入った。

 そうは言っても既にもう社会生活は始まっていた。折角入った夜間高校には出席する時間がない。

その上、環境にも馴染めず、余り出席もせず、暇を見つけては、以前の高校の部室に通った。

 以前の仲間も歓迎してくれた。第一、新年度に学校が購入する『京都で始めての、口径二十センチの反射望遠鏡』が待っている。そんな事でその年の文化祭は私が仕切ってしまった。

以前の担任の村田先生が又心配して、

「大学はどうする」と聞いてくれた。仕事はわりと順調に進んでいたのと、負け惜しみが重なり、

「もう学校は辞めます」。と胸を張り、仲間達と先生達の前で、

「君達が大学を卒業するまでに、会社を興して置く」。

「お前達の採用試験をしてやるから、しっかり勉強しておけよ!」

などと『ホラ』を吹いて喜んでいた。

 ところが村田先生は、

「どうしても大学に行け、絶対に行くんだ!」と言う。

「受験勉強をして無いので駄目です」

「同志社なら推薦の枠があるから大丈夫、推薦してやる」

と言ってくれる。理学部は当然、駄目だが、当事は経済学部が良いと言われていたので競争率も高かった。

経済が難しくても商学部はなら行けると思って、逆に・・・

「商学部は嫌です、経済に推薦してくれますか?」と、ずうずうしく言うと、

「分かった、経済を推薦してやるから大学だけは行っておけ!」

という事で、私はそのまま同志社大学・経済学部へ入学してしまった。

剣道を始める

そんな、多忙を極めた毎日だが、昭和二十六年九月、講和条約が成立した。

アメリカの対日占領政策が日本を武装解除しただけでは、まだ足らず、人間の本能の中にある『闘争心』さえも奪ってしまうと云う積りか?『剣道』まで禁止されていた。講和条約の成立で剣道の禁止が解除された。

心の中で、アメリカ文明に憧れと、反発が葛藤(かっとう)していた私は、『剣道』は、日本人の心にある伝統的文化だ。これは、自分達が継承して後世に伝えなくてはと、教えてくれる先生を探した。

つい、最近まで、占領軍の命で禁止されていたので、日本人でも、剣道の先生など軍国主義者と云う事で戦争犯罪人の様に思っている人も多く、どこで教えているかが分からない。募集広告を出している分けでは無いし、秘密結社みたいで探しようが無かった。

縁あって、小川金之助と云う人が上加茂警察所の道場で『京都・弘道館』という道場を開いている事がわかった。この方は、剣道・範(はん)師(し)・十段、最高位の人である。昭和十年、天覧試合で『日本一の剣士』の称号を貰って方で、東京の、剣道・範師・十段、中山博堂と『東の博堂、西の金之助』並び称された人である。

私と弟、従業員の三人で『京都・弘道館』に入門し、小川先生に師事する事に成った。

稽古は猛烈にやったし、もとより少ない人数なので、幹事として道場の運営に参加するようになった。すると直ぐに、先生の生活が苦しい事が分かってしまった。敗戦までは、剣道だけ教えていれば良く、生活の心配などなく、雑用は誰かがしてくれる身分で、いわゆる『剣道馬鹿』の『生活音痴』であった。

戦後は戦犯にこそ成らなかったが、公職追放の憂き目に会い、道場は接収され、門弟も大勢いたが、彼らも、軍関係者が多く、公職追放されたりで、寄り付かなく成っていた。

売り食いも底を付き生活費にも事欠き、お酒の好きな先生が、酒もろくに飲めない状況であった。

そこで、酒は拾本入りの一箱を持って行った。

男の子がいなく、娘さんが養子を迎え、その方が武専での七段教師で道場を仕切っていた。

その娘さんが「こんなに沢山のお酒,どうしましょう?」。

腐る前に亡くなりますよ」と冗談を言いながら、他生活に必要な、醤油は一樽、米なら一表、高額商品は、何に食わぬ顔で、勝手口に運んだ。

★稽古は猛烈にする方なので、先生も可愛がってくれ、稽古の面倒はよく見てくれた。 

三段を貰った頃の掛かり稽古で打ち込む時に「刃筋、刃筋が悪い!」と基礎稽古の叱責が飛ぶ。

「俺は、教師になるつもりは無い。大学の剣道部の学生が、するような試合稽古をして欲しいのに」

と、不満だったが、試合稽古など奥義(おうぎ)を究める邪魔になる、と私にはしてくれなかった。

然し、よく考えて見ると、今の剣道の原型は戦国時代が終わり、徳川の太平の時代に成って形が出来上がったものである。

戦闘の手段という意味も無いことは無いが、主に支配階級たる武士の教養としてのほうに力点が置かれている様である。

★それが、「剣道は礼に始まり、礼に終る」と云う事で言葉に集約されている。

何はともあれ、小川金之助先生についた剣道修行の数年は私の人格形成に重要な役割を果たした。

商売は順調で、なかなか大学の授業へ出席出来ず、特に『英語とドイツ語』の単位がどうしても取れない。新学期の頃は『代返』が効くがしばらくすると『今、同じ者が二度返事をしたな!』とバレてしまう。

どうしても出席が足りず単位が取れず四回生に成ると、先生は、

「諸君は出席する事と、試験の答案用紙に名前を書く事を忘れるな、出席点で単位をやる」

仕事は順調に行っていたので、

「そんな無茶なことを言うなよ、」

と、思った。しかし時間は瞬く間にすぎて、私は六回生になってしまった。

学則に依ると、

「七年で卒業しなければ成らない」と明記してある。

 登校するに及ばず

「後二年しかない、少し真剣に学校に行かなければ成らない」。そう思っている時、学校から「書留」が来た。何事か?と開封すると『登校するに及ばず』と書いてあった。

瞬間、驚愕したが、

「何、七年まで学校に居てよい筈だ、未だ一年ある」と学生課に文句を言いに行くと、

「君は後一年粘っていても、単位は取りきれない。だから七年居ても卒業の見込みはないから在籍していても無駄である」

と、いうのである。いくら勘定して見てもその通りである。

学校と言う所はなんと親切な所だ、と妙な事に感心した。その上に、

『退学処分する』と言わず、

『登校するに及ばず』と言う。なんと優雅な表現だろう。

『日本語は良いものだなあ!』と、思った。もっとも、英語では何と言うのか勿論知らない。と、変なことに感心して、この手紙はしまっておいたが、結婚した時、妻に見せ、

記念品だから大事にしまって置いてくれ」

と預けたが、何度かの転居で無くしてしまった。本当に惜しい事をした。

昭和三十二年三月のことである。

 学問の諦めと結婚

『登校するに及ばず』の書留を受け取って最早迷う事は何もない。それまでは学問にも未練はあった。商売をしながらでも、こんな事をしていて良いのだろうか?と迷う事もあった。今はもう、戻る事は出来ない、仕事に命を掛けるだけだ。覚悟が出来ると仕事に対する勢いも違う。そうすると出て来るのは結婚せよと言う話だ。日常生活が多忙で女の子と遊んだ経験が無い。知り合いに適齢期の女性はいない。

剣道をしていた時、剣道の若先生の奥さんが『お茶』の師匠で『初釜』によく招待された。

お弟子さんに若いお嬢さんが大勢いるからと、若い剣道の弟子達が大勢で押しかけた。

こちらも剣道で正座は慣れているので、座敷での立ちい振る舞いに不安はないが、お茶の作法はさっぱりだ。

剣道の稽古の後、『ああだの、こうだの』と聞きかじりの作法を教えあい、多少は覚えた積りだが、当日は、サッパリだ。綺麗なお嬢さんが振り袖の着物を着ていたのを見た記憶と、お茶の作法の失敗談の笑い話の種が残っただけだった。

★仕事で行く銀行の窓口の女の子や、得意先の受付には綺麗な人がいて、

『あんな女性なら、お嫁さんに欲しいな』と思う事もあったが、とてもデートに誘う勇気はない。先方が、気があるのか、誘うような態度を見せると、「何だ!女の癖に」と、此方がそっぽを向く。

これでは自分で見つける事は出来ない。母親は病弱だし、早く嫁さんを貰わなくては、仕事にも影響すると、気がせいていた。

誰か、勧める人があれば『見合い』でもしようと思っていた。

働き者で通っていたので話は幾らでもあった。ところが『見合い話』を持って来る人は私の事を殆ど知らない。ただ一度、私を見て、

「こんな良い息子さんのお嫁さんには、必ず、良い人を私が探します」というのである。

そして写真を持ってきて・・・。

「良いお嬢さんです」という。この人は私の事を何も知らない。

きっと、そのお嬢さんの事も、私と同じ位知らないのであろう。こんな事が何回かあった。  

 これは困った事に成った。自分で探せない。人の紹介も信用できない。これでは一生、結婚出来ないと思っている時、昭和三二年の夏休みで有った。

私の事を、親より理解している、高校の恩師・村田先生が、ふらっと家に寄られた。

この話を聞き、先生の生徒で、高校を卒業して『近江兄弟社学園』の幼稚園で、先生をしている人がおり、この子が似合いだという。

近江兄弟社学園の創立者、一柳マキコ先生は三歳児教育の日本の先駆者である。相手の彼女は、その一柳先生に薫陶を受けた女性であると聞いた。

『決めた!』と思った。

この先生は、私の事を、生徒として以上に理解し、将来の心配までして呉れている。相手の女性の事も、私の事も充分知っての上での紹介である。

八月の末、学園で会って後、初めてのデートでの話である。彼女は『ミッション・スクール』の学園を卒業してそこの幼稚園の先生をしいて、しかも創立者の一柳先生の手元で薫陶を受けながら、『クリスチャン』には成らない。

然し、決してキリスト教を否定している訳では無い。そこまでのめり込めないのである。

聖書のコリント全書の一節に『愛は寛容にして慈悲あり・・・・・』の一節を二人共覚えている。

ここで一寸、『ミッション・スクール』の説明をしておく。

メレル・ボーリスと云うアメリカ人が明治三八年、八幡商業の英語の教師として赴任してきた。

彼はキリスト教の布教が本来の目的で来日したのである。そこで、かなりの成果はあったのだが、古い土地柄と、県立学校という事で布教するのには、問題も多く、退任して教会(建物では無い、布教の団体の意)『近江兄弟社』を設立したのである。その、布教活動の一環として設立した学校である。だから近江兄弟社学園は『ミッション・スクール』なのである。

メレル・ボーリス師は、アメリカで幼児教育を学び、キリスト教に帰依して、クリスッチャンと成り帰国した華族の娘一柳(ひとつやなぎ)満喜子(まきこ)と縁あって結婚し、一柳米来留(ヒトツヤナギ・メレル)と成った。

そして幼稚園を設立して日本初の三歳児教育を開始したのである。

そこで、家内が先生として勤務していた。布教活動の一環として経営する、幼稚園、学校、サナトリの必要資金を稼ぐ為、近江兄弟社は設計事務所を設立して、明治の末から大正時代に、かけて多くの名建築を残している。現在も大阪で通称『ボリ建』と言われ活躍している。又、メンソレータムを作る製薬会社を経営している。私達の仲人をしてくれた村田先生の父親は、近江兄弟社の創立メンバーの一人であった。

私も、同志社には、中学から大学は六回生迄、卒業は出来なかったし余り成績が良い方では無いが、十二年間も在籍した。御存知の様に同志社はキリスト教の教育をする学校で『同志社教会』もある。然し、同志社は『ミッション・スクール』ではない。

『武士道とキリスト教精神で、日本の若者を教育する!』。

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