何と『軍装サン』の給与の二年半の支度金である。

ある日、気分転換を求めてネットサーフインをして遊んでいた、偶然に発見したのが、

「売春婦募集で『支度金を300円支給する』。の古新聞の広告である。

★お客である、当時の兵隊さんの給与は軍曹で月給10円である。

何と『軍装サン』の給与の二年半の支度金である。

最も、兵隊サンは『一銭五厘のハガキ』で徴兵され、『名誉の事だ』と、喜び勇んで入隊する時代だ。

★この高額に釣られ、『娘を騙して、女衒に売る親があっても不思議でない』。

嫌、当然である。

★ましてや儒教の国、朝鮮である。

親孝行と諭され、娘サンこそ哀れであるが、日本の農村でも、不作の年は『年貢を納めた残りの米では食って行けない』で、娘を廓に売った話は珍しくもない。

~もうひとつ面白い記事である~

『消された歴史』でこんな記事があった。

★高麗・朝鮮王朝時代の『貢女』の実態。  

★高麗・朝鮮王朝時代の『貢女』の実態とは高麗時代から朝鮮王朝時代まで続いた『恥辱』娘が候補になると、顔に薬を塗って傷を付けることも『娘が生まれたら秘密にしたまま暮らす』。

他人に知られるのが心配で、隣人にも娘を見せられない。

娘を隠していた事実が発覚すれば、村全体が害を被ることになり、親族を縛って取り調べ、屈辱を与える。

★処女を選ぶ過程で『賄賂』が取り交わされるが、金がある者は切り抜け、金がない者は連れて行かれる。

高麗時代、李穀(イ・ゴク)=(1298~1351)が、はるか遠くの元の皇帝に差し出した上訴は、切々としている。

★ 李穀が訴えたのは、ことあるごとに中国に献上しなければならなかった『人間の献上品』こと貢女のことだ。

恥辱の歴史は、5世紀初めまでさかのぼる。高句麗・新羅から中国の北魏に、女子を送ったという記録がある。

貢女の献上が最も盛んに行われたのは、高麗後期から朝鮮王朝時代にかけてだった。

★ソウル大学奎章閣のイ・インスク人文韓国(HK)事業研究教授は、今月末に出版される『朝鮮人の海外旅行』(文字の甕社)で、『高麗史』と鮮王朝実録』を中心に貢女の残酷な実態をまとめた。

★自害・早婚で抵抗することも高麗時代の元宗15年(1274年)、元が140人の婦女を連行したのを皮切りに、忠烈王・恭愍王代に元に対し献上した貢女は170人以上、44回に上った。

朝鮮王朝時代にも、太宗から孝宗の時代にかけて、明・清に対し9回にわたり146人が献上された。

★学界では、中国の高官が私的に連れて行ったケースを合わせると、数千人に上ると推定している。

中国から、貢女を選ぶ『採紅使』が訪れると、朝廷では貢女選抜機関を臨時に設置し、巡察使が各地を物色して回った。だが、民衆の抵抗は激しかった。

孝宗の時代、慶尚道の鄭煌(チョン・ファン)という人物は、娘が貢女候補になったことを知るや、娘の顔に薬を塗って傷を付けた。

また、娘を出家させるケースもあった。

高麗時代には、乳飲み子を乳母が抱いて嫁がせることまであった。

★そのため朝鮮王朝時代には、世宗が『12歳以下の女子については婚姻を禁ずる』という法令を公布しなければならないほどだった。

★朝鮮王朝時代の太宗8年4月、各地から処女30人が選ばれ、ソウルに移送された。

父母を亡くして3年以内の女性や、息子がいない家の一人娘を除いた7人が、景福宮での最終審査に臨んだ。

★しかし中国の使臣は『美しい女がいない』として官吏を棒で打とうとした。

娘たちも指名を避けようと、体に障害があるかのように口をゆがめたり、足を引きずったりした。

★最終的に、娘たちの父親は全員罷免されたり、流刑に処されたりした。

同年7月、再び選抜が始まった。

太宗は『処女を隠した者、針灸を施した者、髪を切ったり薬を塗ったりした者など、選抜から免れようとした者』について、厳罰に処するという号令を下した。

★だが、『貢女』には、親達は色々な抵抗をしているが、慰安婦(売春婦)の募集には『高額の支度金に目が眩んだ親達は、「稼いで来いよ」と、喜びを噛みしめて送り出してのではないか?と、思うのは『稼げなかった者の僻み』であろうか?

      了)   豊永高明 拝、

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