今次大戦の秘話(日本海軍の残照)
私は学者ではない。歴史家でもない、馬齢を重ねて86歳の老人である。
そんな私が歴史を語る等は烏滸がましいと思うが、1945年(昭和20年)、国民学校(今の小学校)の生徒だったので、当時の経験し、日本人の心理状態も解っているので、後世に伝えるのは我々の経験者の任務と心得、書き綴る。
★僕の国民学校(現・小学校)6年の夏休みの8月15日、『ポツダム宣言受諾』の玉音放送で終戦。
★だが、ポツダム宣言を受諾した、と言われても、国民学校の六年の子供では意味が解らない。
~昭和20年8月15日、終戦の詔勅の玉音放送がラジオでながれた~
昭和25年8月15日、終戦の詔勅を、涙を流して聞き終えた父が、涙をネグって国民学校(小学校)の6年生の僕に言った言葉である。
★「日本は戦争に負けた。
国の将来アメリカの占領軍の意向で決まるので判らない。
だが、軍人と言う職業は間違いなくなる」。
★お前達の進路は、お前自身で決めろ!
1、金を設けて贅沢な暮らしを望むなら、『商人(アキンド、(経済人)になれ!』。
2、天下国家の為に働きたければ役人(官僚)になれ!
3、官僚は天下国家の為に働く。金儲けに働くものではない。
4、必然的に、その生活は質素でなければならい。
5、『清貧の生活に甘んじる』覚悟が必要である。と、教えられた。
★数日後、灯火管制用の黒布が外され、爆撃でガラスが割れ,飛散防止の為に貼られた紙も剥がされ,街灯も付いて、街頭の明りで夜でも字が読めるので驚いた事が記憶に残っている。
~一夜が明けると価値観は100%替わった~
一夜と言ったが、夏休が終わって学校に行くと、価値観も教育方針も替わって、特に歴史、国語の教え方がひっくり返って、先生方は如何に教えるか占領軍に意向次第だと大騒動。
~価値観は一変した~
敗戦でアメリカ中心の占領軍の指揮下に入ると説明され、教育現場は一変、混乱を極めた、と言っても、物理的には粛々と進められている。
校庭片隅に建てられた『奉安殿』と呼ばれた小さな建物に保管されていた『御真影』と呼ばれた天皇陛下の写真、勅語等は、先生方が泣きながら燃やしていた。
★僕等は校庭の中央に、『剣道の防具、竹刀、木刀』の類は校庭に集められ焼却された。
さらに僕たちは、『教科書の勅語』、『青少年学徒に賜りたる勅語』。戦争や、軍神を美化してもの、戦記物は墨で塗りつぶされるか、切り捨てられた。 先生は淡々と無表情でこの作業を指示していた。
何か間違っている。「先生も昨日の先生と同じ顔だ!」。
僕は切り取って家に持ちかえり、「忘れてなる物か!」と繰り返し読んで頭に叩き込んだ。
~私は小学時代から学校教育を疑っていた~
★僕はアメリカを憎みました。
進駐軍がやってきました。
示威行動か、京都中心の烏丸通りを、銃剣を担いだ米兵が、隊伍を組んで行進しています。 休憩時間が来ました。
三々五々、兵隊達は銃剣を地面に寝かせ、その上に腰を下ろして休んだ時は煙草を吸い、ガムを噛む、ガムの糟は吐き散らすのだ。
それに比べて日本軍は「小休止!」と命じられ時は、姿勢は崩すが、腰は下ろさない。
「大休止!」の命が出て初めて腰を降ろすのだ。
その時は銃剣を三丁で組たて、決して地面に平積にしない。軍律の厳しさは、日本兵の比ではない。
「何でこんな連中に負けたんだ?」、と不思議であった。
★それの周りを取り囲むように、同級生の児童が見守っている。
兵隊達は「ほれ!」と、犬か猿に餌を与えるようにガムやキャンディーを投げる。
それを拾わんと、我先に飛びつくように走って拾うと元の場所へ駆け戻る。
次に投を待って、投げたら拾わんと、身構えて待つ。
★「やめろ!餓鬼ども!」と、蹴散らしたかった。だが、銃剣を持った米兵の前では、その勇気はなかった。
私は街角に隠れて泣いた、涙はこぼれて止まらない。
『なんで!なんで!』。ついこないだまで、『欲しがりません、勝までは!』『鬼畜!米英撃滅!』と誓ったではないか。 『負けたんだ!日本は!』。
★学校ではこんな作業は粗方済んだ頃、僕は数人の級友を引き連れ、教員室に先生を訪ねした。
「先生!戦争は負けたんでショ!」、
「負けたら僕達死ぬんでショ」、
「何時死ぬんです? 手投弾は何時呉れるんです」。
★先生は「・・・・・」は黙ったままです。 時間が流れに従って、後ろの友達は一人、一人と減って、僕と先生も二人で黙って向き合ったままであった。
日も暮れる頃になった、先生は重い口を開き、
「もう、お家に帰りなさい。戦争は終わったんだ、君達は死ななくて良いんだ」。
「これからはアメリカと仲良くするんだ!」。
僕も黙ったまま、家に帰りました。
帰っても黙ったままで、父母と何の話もしませんでした。
翌日も黙って学校に行きました。
先生にあっても、昨日の事などは、黙って何も言いません。
友達も昨日のこと等、何も言いません。
何か別世界に来た気がしました。「何か可笑しい!」、「何か、間違ってる、」疑う毎日であった。
★これが私戦後生活の始まりで、
~学校教育を疑って係るのが~
★『私の人生のスタートライン』であった。
~帝国海軍の残照~
★そんな騒動をよそに、戦後になっても顕在して、黙々と任務に励んでいた帝国海軍の残照があったのである。
★復員局、第二復員局、海上保安庁、海上自衛隊と所属を替えながら、続いていたのが、帝国海軍の掃海部隊である。
敗戦間近にアメリカの潜水艦の活動を抑えんと、日本海軍の敷設した、防護用機雷が五万五千個も敷設されていた。
そこにアメリカ海軍が投下して、日本を海上から封鎖しようとして高性能機雷が一万個以上で七万個位の機雷が日本を取り巻いていた。
これを除去しなければ、進駐どころではない。
★マニラで行われた、進駐連絡協議会で、九月の上旬までに日本近海の機雷を除去して置くに合意があった。
しかし、合意はあっても七万個の高性能機雷の除去はでききれなかったので、九月二日に旧・日本海軍が解体され、戦艦・長門以下の残存艦船はしかるべく処理された。
★そんな中で機雷除去部隊は寧ろ、増強され継続して存在でも黙々と機雷除去作業を続けて、その技術は日、米両政府も認める世界最強で、信頼は厚かった。
当時の日本掃海部隊は艦船391隻、人員一万九千百名を擁し、世界でも最大規模で、太平洋狭し、と活躍した精鋭であった。
★ところが、昭和25年(1950年6月25日)朝鮮戦争が勃発、38度線を突破した、ソ連製の戦車を先頭に、北朝鮮軍は怒涛のような勢いで韓国軍を圧倒、救援の為に駆け付けた
アメリカ軍中心の国連軍も、準備不足で防戦一方。
プサン周辺に追いこまれ、壊滅寸前であった。
★だが、やっと編成を建て直し、仁川沖の敵前上陸で戦況を逆転し、国連軍が、勝利の向う目途が付いたが、それを確実のものとする為に、朝鮮半島の東岸の元山に上陸せんと試みた。
しかし、元山沖にはソ連製の高性能機雷、一万個も敷設され、敵前上陸は元より、偵察もできない。
~制海権を取られたと同じ事であった~
★上陸を急ぐマッカーサー司令官は、連日にわたって矢の催促である。
しかし、戦争が終わったアメリカ海軍の、掃海艇部隊は解散、10隻の掃海艇しか残っていない。
偶々視察に訪れたホレスト・シャーマン作戦部長に頼むが、急場の間に合うものではない。
★マッカーサー総司令官の要請を受けた、極東海軍の司令官バーク提督は、当時は『海上保安庁』に所属して、活動し続けていた日本の掃海部隊に目を付けた。
そこで極東海軍のバーク提督は、海上保安庁長官・大久保武尾局長を指令部に呼び出した。
★自室に呼んだバーク提督は、北朝鮮の敷設したソ連製の高性能機雷の危機を縷々説明し、日本の海上保安庁所属の掃海部隊に頼む以外の方法はない。と訴えた。
日本の掃海部隊は戦後一貫して掃海作業をしており、士気も練度も世界最強であり、日アメリカ政府も海軍も認めて信頼している事も縷々説明、協力を要請した。
★当然大久保長官は当然困惑、「自分の権限では受ける事はできない」、強いて言えば総理の管轄である。と断った。
と言う事でバークの自動車に同乗して総理官邸を訪ねた。
★だが、当然総理でも首を立てには振らない。
しばし沈黙が続いて、吉田総理が「この話、マッカーサー閣下は御存知か?」。
「勿論です、だから私が此処に入るのです」。
~此処からは私の推論である~
外交官を長年務めた吉田総理の勘では、この間の遣り取りに、マッカーサーは知らないのではないか、の疑念を抱いた。
★朝鮮戦争が始まったのが昭和25年の六月。
講和条約が成立したのが昭和26年9月8日の決定、発行が27年4月28日で、原案が大詰めの最終段階に来ている頃である。
~彼、吉田総理の外交官の直勘が命じたのだ~
講和助条約の交渉カードに使える。
「では仕方がない。お受けします」。
「だが、国会に漏れたら野党に突き上げられると大騒ぎになる。機密の保持ができますか?」。
「勿論!秘密厳守で行きます」。で、一決。
もしこれがマッカーサ―の知る処となって、命令となれば占領下の事、否やはない。
同じ事をしても値打ちは天と地ほど違う。
~筆者の推論~
講和条約の条件交渉で、「司令官の知らないところで此れだけ協力しているのですよ」の切り札に使える。と吉田総理の思惑であった。
~程なく下関の掃海艇が終結した~
当時の日本の掃海部隊は、老朽化した艇とは言え、母艦を含め掃海艇50隻、鍛え抜かれた、精鋭は太平洋狭し、と活動した1500名の海の男の精鋭がいて、世界一の自負もあった。
★朝鮮海域の掃海作業と聞き、隊員は戸惑ったが、大久保長官が、「君達の活躍で日米講和が有利に展開、独立も早くなる」。
「船出を岸壁で日の丸振って見送る事はできないが、成功を祈っている」。
★もちろん、行くか行かぬは君達の自由である。
★聞いた隊員の殆どの隊員は困惑したが、『独立が早まる。講和条約が有利になる』に隊員の覚悟は決まった。
★一部の隊員は、妻子が「行くな!」と泣いて止められ、辞退したものあったが、殆どの隊員は「行こうじゃないか!」。で、一決。
~筆者の推測である~
筆者の推測だが、帝国海軍の生き残りは国内では住辛かったと思う。
ましてや中学校の先生に選ばれて見たが、軍人は悪者とする戦後の教育をするなんて、耐えられないのが本音だろう。
★例えアメリカ海軍の指揮下であっても、鍛え上げた海上で作業である。
海の上の仕事に憧れたと、思う。
★こんな事情と駆け引きの甲斐あった、吉田総理は、敗戦国としては最高の出来、と思われるサンフランシスコ講和条約を締結、署名している。
★講和条約の原案創りに、白洲次郎を側近としての功績は計り知れない、影の存在であった。
彼,白洲次郎は貿易商の息子で、我侭で、我の強い男で、困った親は、多額の金を持たせてイギリスのケンブリッジで学び、遊ばせた。
英国紳士の付き合い、欧米紳士の『ものの考え方』習慣を身に着け、占領軍と交渉では、此方の意見は頑強に主張、筋を曲げる事がなかった。
★当時、日本の総理以下、閣僚は何を言われ、命じられても「イエス・サー」であった。しかし、彼は「イエス・バット(しかし)」が必ず付けた事から「バットマン」と言われ、『従順ならざる日本人』と呼ばれていた。
★『旧・日本帝国海軍の掃海部隊の命を懸けた、活躍があった事なしでは、語れないが極秘裏の活躍で、マスコミは報じないし、関係した日本人も僅かであり、知る人も少ないが、日米の生き残った軍人の働きのお蔭で、昭和26年講和条約に署名され、27年に発布され、晴れて独立国になった。
件の掃海部隊を始め、海上自衛隊の諸兄は実戦にこそ参加しなかったが、掃海作業中の蝕雷で何人かは命を落としているが、公表される事なく死んでいる。
★吉田総理の駆け引きで、掃海艇は米軍が接収。搭乗員はアメリカ軍が軍属とし直接雇用したので給与の支払いは『ドル』であった。
当時のレートで日本の公務員の給与と比べ二桁多かったし、命を落とした者への見舞金も米兵なみ(高額で)に支払われたので、当時貧しかった日本人にはひと財産であったと、聞くのがせめてもの慰めである。
★この朝鮮戦争を逆転勝利に導いた、秘密の日米共同作戦が、海上自衛隊と米国海軍と間には友情が産まれた。
そしてアメリカ軍は世界各国に海上自衛隊を紹介するのに、日本の海軍(ジャニーズ・ネイビー)と紹介している。
(ネイビー(Navy)とは、濃紺(のうこん)のことで、英国海軍の制服が紺色だったので『ネイビー』と呼ばれるようになったと言われている)。
★だが、これだけ働いた彼等は日本国内では、憲法違反の日陰の子供である。
しかし、国外で既に軍隊と認めているのだ。
★これは海上自衛隊だけではなく、航空自衛隊、陸上自衛隊も然り。
事実、特に潜水艦の能力は、空母機動部隊との共同演習で、厳重な空母の護衛を掻い潜り、★空母に魚確命中確実な所まで潜入、浮上し空母撃沈の判定を取っている。
★航空自衛隊も同様で、ひと世代遅れたフアントムで、現役のアメリカ戦闘機と模擬空中戦で『撃墜』の判定は何度も貰っている。
事実、ロシアが領空すれすれに飛行偵察行動をする自国の『ミグ戦闘機』に此方が二機なら逃げろ。三機いれば挑発して敵の技量を試せ。と命令されているそうである。
★アメリカ国内で行う、アメリカを始め、同盟国が参加する射撃コンテストで、陸上自衛隊のチーメが満点に近いブッチギリの優勝をした、表彰式で彼等の顔色が瀬ないので、何故か?と聞くと、「あのはずれした原因を考えていた」。と言うのだ。
聞いた、いあわせた者達は、「クレイジー!彼等は!あんな連中とは、何が何度も戦う事は、避けねばならぬ」と呆れたそうである。
★これだけ訓練で鍛えた彼等でも、自衛隊発足以来、一度も実戦はしていないで、任期が終われば「異常無し」の報告書一枚書いて、後輩に道を譲って去ってよく。
★しかし、思い出して下さい。
日本の国民が軍神と崇めた『大日本帝国連合艦隊・山本五十六元帥』が、常に部下に言った言葉が、
『百年兵を養うは戦に勝為ではない。戦を起さぬ為である』。
★何と薀蓄のある言葉であろうか。
日本の巷に溢れる『似非,平和主義者』に聞かせたい言葉である。
★『正に発足以来一度も戦争をした事がない、『日本の自衛隊』は抑止力そのものである』。
~ワンマン宰相・吉田茂の功績と鳩山一郎と日本のマスコミ~
鳩山一郎は、戦後すぐに立ち上げた日本自由党が、第一党になった直後に公職追放の憂き目にあった。
★後を託されたた吉田茂は、『自分は外交官で総裁の器ではない』、と固辞し、ほかに人材を求め、吉田茂は幣原喜重郎を推薦したが固辞され、仕方なく吉田茂が引き受けた、と聞いている。
★おそらく戦後処理としては最高のできだ、と思われるサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約を締結した。
講和条約が締結され、公職追放が解除された鳩山が総理の座を返してくれ、と言ったが、吉田茂は「まだやることがある」。と、政権の座を返せ、等と私物化しているので無視した。
★対ソ講和と引き換えにシベリア抑留の捕虜の帰国と北方四島返還)残っている」と、申し入れを無視した)。
しかし、事情を説明しなかった事は、秘密保持の外交の常識である。
~『書けなかった特ダネ』三宅久之 著で述べている~
★鳩山御殿と呼ばれている、鳩山一郎宅にソ連の密使が訪れ、講和条約を結ぶ用意がある、とのとの連絡が合った事は吉田内閣の公安が察知していたので、政府も機密情報として、北方四島さえ戻って来るなら吝(ヤブサカ)かでない、お情報同時に流してある。
捕虜の送還は国際条約であるのであるので書く必要はない。
★吉田内閣でソ連課長をしていた『曾野明氏』は、北方四島の返還とシベリアに抑留されている帰還は「出来た!」と内心微笑んだ。
★それから鳩山一郎は、日本民主党を結成、反吉田に徹し、吉田内閣の足を引っ張る事に専念した。
サンフランシスコ講和を条約(当時、単独講和と言われたが、ソ連とその属国少数だけが不参加)という大仕事を取られた、鳩山一郎は、「俺は何をすれば好いんだ?」、と考えた。
★当時の政局は時の幹事長佐藤栄作が造船疑獄で、指揮権を発動、調査を辞めさせた総理の吉田はマスコミに『ワンマン宰相』と呼ばれ評判は悪かった。
(鳩山一郎の五十五年の保守合同で自民党に成るまでの功罪はこの際省く。)
★国会で質問に立った鳩山氏は、吉田内閣の何かの政策を非難した。
当時の政治化の多くは自分が国会質問に立った日は、翌日の朝日新聞の社説を見るそうである。 この評判で一喜一憂したそうである。
★鳩山一郎氏も同じで、翌朝の朝日新聞を見ると、評価は良かった。自信を得た鳩山日本自由党は「吉田内閣不信任を提出」可決してしまった。そして吉田内閣は倒されたのである。
~我々は忘れては成らぬ~
日ソ講和条約締結の目前に倒れた吉田茂以下の関係者の悔しさと、シベリア、モンゴルの凍土に眠る、旧日本軍の捕虜の悲しさと悔しさを。
★そして日本軍の捕虜は「大相撲の横綱・朝昇竜や白鳳の故郷」、モンゴルの首都、ウランバートルの開発で多くの命を落としたのである。
当時流行った二葉晶子の『岸壁の母』で、シベリアに抑留された息子を思う親の気持ちを聞くと私は涙が止まらない。
★吉田内閣を倒した鳩山一郎は、対ソ講和条約を結べば、吉田と匹敵する評判を取れる、考えた。
しかし吉田茂ほどの外交手腕などあるはずもなく、ソ連の『イシコフ漁業大臣』の玩具にされ、講和条約に不可欠な領土問題は棚上げにされ、日ソ友好条約を結んで、ソ連は念願の大使館を設置した。
大使館さえ出来れば急ぐ必要などない。
★北洋漁業の再開を急ぐ漁業会社(相当の額の政治献金を受けていた、と聞く)の後押しで、数万トンの鮭鱒の漁獲と交換に、シベリアで拘留されている数十万の日本軍の捕虜の帰国と、北方四島の返還が無期延期となってしまった。
直前に吉田内閣は社会党の内閣不信任案に同調した、鳩山一郎一派によって、倒れたのである。
★再度言う、我々は忘れては成らぬ。日ソ講和条約締結の目前に倒れた吉田茂以下の関係者、シベリア、モンゴルの凍土に眠る、旧日本軍の捕虜の悔しさを。
正に業界の利益が国益を損ねた実例である。 続く、
次回は『曾野明氏のマスコミ政治をを紹介する。
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