―謝罪外交は終りにしようー

★下記の通りに『田中角栄』に始まって、『管直人』まで『天皇陛下』を含め、25人の閣僚が今次大戦で、アジア諸国、特に『チィナ』、『韓国』に詫びている。 総理大臣が替わる度に『お詫びをする』、総理大臣の任期は短く、永久に続く。 つまり、終りはなく、永久に続くお詫びなのである。 彼等に誤解させる『謝罪外交』を、続ける事は彼等の為にもならない。一国の総理が替わり、新しい内閣ができたら『施政方針も替わる』。 

★総理が替われば、謝罪ではなく、「挨拶と、今後の施政方針を話に行こう」。 一万四千字を超える長文であるが、御一読を頂き、感想を書き込んで頂きたい。

 ★―お詫びは、25人の総理が述べているが、戦勝国のアメリカや、侵略されたアジア諸国の反応も見て見たい。― 

 1、田中角栄内閣総理大臣 

★昭和47年9月29日 -の、「日中国交正常化」で述べている。 日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。 また、日本側は、中華人民共和国政府が提起した『復交三原則』を十分理解する立場に立って国交正常化の実現をはかるという見解を再確認する。 中国側は、「これを歓迎するものである。」 

 2、田中角栄初訪中時 

★1982年(昭和57年)8月24日 、過去の戦争を通じ、重大な損害を与えた責任を深く痛感している」 「『侵略』という批判もあることは認識する必要がある」

 3、宮澤喜一内閣官房長官 

★教科書問題での記者会見にで、1982年8月26日 。 日本政府及び日本国民は、過去において、我が国の行為が韓国・中国を含むアジアの国々の国民に多大の苦痛と損害を与えたことを深く自覚し、このようなことを二度と繰り返してはならない、との反省と決意の上に立って平和国家としての道を歩んできた。

 4、日韓共同コミ二ケ 

★韓国については、昭和四十年の日韓共同コミュニケの中において『過去の関係は遺憾であって深く反省している』との認識を、中国については日中共同声明において『過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことの責任を痛感し、深く反省する』との認識を述べた。 これも前述の我が国の反省と決意を確認したものであり、現在においてもこの認識にはいささかの変化もない。 このような日韓共同コミュニケ、日中共同声明の精神は我が国の学校教育、教科書の検定にあたっても、当然、尊重されるべきものであるが、今日、韓国、中国等より、こうした点に関する我が国教科書の記述について批判が寄せられている。 我が国としては、アジアの近隣諸国との友好、親善を進める上でこれらの批判に十分に耳を傾け、政府の責任において是正する。 このため、今後の教科書検定に際しては、教科用図書検定調査審議会の議を経て検定基準を改め、前記の趣旨が十分実現するよう配慮する。 すでに検定の行われたものについては、今後すみやかに同様の趣旨が実現されるよう措置するが、それ迄の間の措置として文部大臣が所見を明らかにして、前記二の趣旨を教育の場において十分反映せしめるものとする。 

★我が国としては、今後とも、近隣国民との相互理解の促進と友好協力の発展に努め、アジアひいては世界の平和と安定に寄与していく考えである。」

 5、昭和天皇 

★1984年『昭和59年)9月6日』「…今世紀の一時期において、両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならないと思います。」  大韓民国の全斗煥大統領が国賓として初訪日した際の歓迎の宮中晩餐会での勅語。 1984年9月7日 - 中曽根康弘首相。 「貴国および貴国民に多大な困難をもたらした」「深い遺憾の念を覚える」  

6、後藤田正晴内閣官房長官談話。 

★1986年(昭和61年)8月14日 -。同首相歓迎晩餐会にて、「…しかしながら、靖国神社がいわゆるA級戦犯を合祀していること等もあって、昨年実施した公式参拝は、過去における我が国の行為により多大の苦痛と損害を蒙った近隣諸国の国民の間に、そのような我が国の行為に責任を有するA級戦犯に対して礼拝したのではないかとの批判を生み、ひいては、我が国が様々な機会に表明してきた過般の戦争への反省とその上に立った平和友好への決意に対する誤解と不信さえ生まれるおそれがある。それは、諸国民との友好増進を念願する我が国の国益にも、そしてまた、戦没者の究極の願いにも副う所以ではない。 

7、中山太郎外務大臣。 

★1990年(平成2年)4月18日 。「自分の意思ではなしに、当時の日本政府の意思によってサハリンに強制移住をさせられ就労させられた方々が、戦争の終結とともにかつての祖国に帰れずに、そのまま現地にとどまって暮さざるを得なかった。一つのこの悲劇は、まことにこの方々に対して日本としても心から済まなかったという気持ちを持っております。」

 8、天皇陛下のお言葉。

 ★韓国の盧泰愚大統領が国賓として初訪日した際の歓迎の宮中晩餐会での勅語。 1990年5月24日 - 明仁天皇。 「昭和天皇が『今世紀の一時期において、両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならない』と述べられたことを思い起こします。 我が国によってもたらされたこの不幸な時期に、貴国の人々が味わわれた苦しみを思い、私は痛惜の念を禁じえません」。  9、★1990年5月25日の同首相歓迎晩餐会にて海部俊樹首相。 「私は、大統領閣下をお迎えしたこの機会に、過去の一時期,朝鮮半島の方々が我が国の行為により耐え難い苦しみと悲しみを体験されたことについて謙虚に反省し、率直にお詫びの気持を申し述べたいと存じます。」

 10、宮澤喜一首相 

★1992年(平成4年)1月16日 - 「私たち日本国民は,まずなによりも,過去の一時期,貴国国民が我が国の行為によって耐え難い苦しみと悲しみを体験された事実を想起し、反省する気持ちを忘ないようにしなければなりません。 私は、総理として改めて貴国国民に対して反省とお詫びの気持ちを申し述べたいと思います。」(韓国の盧泰愚大統領の二度目の訪日時の晩餐会にて)

11、宮澤喜一首相。 

★1992年1月17日 。「我が国と貴国との関係で忘れてはならないのは、数千年にわたる交流のなかで、歴史上の一時期に,我が国が加害者であり、貴国がその被害者だったという事実であります。 私は、この間、朝鮮半島の方々が我が国の行為により耐え難い苦しみと悲しみを体験されたことについて、ここに改めて、心からの反省の意とお詫びの気持ちを表明いたします。最近、いわゆる従軍慰安婦の問題が取り上げられていますが,私は、このようなことは実に心の痛むことであり,誠に申し訳なく思っております」。 詳細は「吉田清治 (文筆家)」、「吉見義明」、および「植村隆」を参照 

12、加藤紘一内閣官房長官。

 ★1992年7月6日 。政府としては、国籍、出身地の如何を問わず、いわゆる従軍慰安婦として筆舌に尽くし難い辛苦をなめられた全ての方々に対し、改めて衷心よりお詫びと反省の気持ちを申し上げたい。 また、このような過ちを決して繰り返してはならないという深い反省と決意の下に立って、平和国家としての立場を堅持するとともに、未来に向けて新しい日韓関係及びその他のアジア諸国、地域との関係を構築すべく努力していきたい」。 

 13、河野洋平内閣官房長官 

★1993年(平成5年)8月4日 - いわゆる河野談話で河野洋平内閣官房長官。 「いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。 政府は、この機会に、改めて、その出身地の如何を問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる」。 14、細川護煕首相。

 ★1993年8月23日 。「それから四十八年を経て我が国は今や世界で有数の繁栄と平和を享受する国となることができました。 それはさきの大戦でのたっとい犠牲の上に築かれたものであり、先輩世代の皆様方の御功績のたまものであったことを決して忘れてはならないと思います。 我々はこの機会に世界に向かって過去の歴史への反省と新たな決意を明確にすることが肝要であると考えます。まずはこの場をかりて、過去の我が国の侵略行為や植民地支配などが多くの人々に耐えがたい苦しみと悲しみをもたらしたことに改めて深い反省とおわびの気持ちを申し述べる」。 1993年9月24日 - 細川護煕首相。「私が侵略戦争、侵略行為という表現を用いましたのは、過去の我が国の行為が多くの人々に耐えがたい苦しみと悲しみをもたらしたとの同一の認識を率直に述べたものでございまして、改めて深い反省とおわびの気持ちを表明したものでございます」。

 15、村山富市首相(日本社会党所属) 

★1994年(平成6年)8月31日 -。 「我が国が過去の一時期に行った行為は、国民に多くの犠牲をもたらしたばかりでなく、アジアの近隣諸国等の人々に、いまなお癒しがたい傷痕を残しています。 私は、我が国の侵略行為や植民地支配などが多くの人々に耐え難い苦しみと悲しみをもたらしたことに対し、深い反省の気持ちに立って、不戦の決意の下、世界平和の創造に向かって力を尽くしていくことが、これからの日本の歩むべき進路であると考えます。  

★我が国は、アジアの近隣諸国等との関係の歴史を直視しなければなりません。 日本国民と近隣諸国民が手を携えてアジア・太平洋の未来をひらくには、お互いの痛みを克服して構築される相互理解と相互信頼という不動の土台が不可欠です…いわゆる従軍慰安婦問題は、女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、私はこの機会に、改めて、心からの深い反省とお詫びの気持ちを申し上げたいと思います。 我が国としては、このような問題も含め、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、関係諸国等との相互理解の一層の増進に努めることが、我が国のお詫びと反省の気持ちを表すことになると考えており、本計画は、このような気持ちを踏まえたものであります」。  

16、衆議院決議。 

★1995年(平成7年)6月9日 。「また、世界の近代史における数々の植民地支配や侵略行為に想いをいたし、我が国が過去に行ったこうした行為や他国民とくにアジア諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する」。

 17、村山富市首相。 

★1995年7月。-「いわゆる従軍慰安婦の問題もそのひとつです。この問題は、旧日本軍が関与して多くの女性の名誉と尊厳を深く傷つけたものであり、とうてい許されるものではありません。 私は、従軍慰安婦として心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対して、深くおわびを申し上げたいと思います。」 1995年8月15日 - 村山富市首相。「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。 私は、未来に過ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。

 ★また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。 敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。 同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。

★これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております」。

 18、橋本龍太郎首相。 

★1996年(平成8年)6月23日 。「例えば創氏改名といったこと。我々が全く学校の教育の中では知ることのなかったことでありましたし、そうしたことがいかに多くのお国の方々の心を傷つけたかは想像に余りあるものがあります…また、今、従軍慰安婦の問題に触れられましたが、私はこの問題ほど女性の名誉と尊厳を傷つけた 問題はないと思います。そして、心からおわびと反省の言葉を申し上げたいと思います。」

 19、歓迎晩晩餐会での天皇陛下のお言葉。 

★1996年10月8日 、昭和天皇が、韓国の金大中大統領の国賓としての訪日、歓迎宮中晩餐会での勅語。 「このような密接な交流の歴史のある反面、一時期、わが国が朝鮮半島の人々に大きな苦しみをもたらした時代がありました。そのことに対する深い悲しみは、常に、私の記憶にとどめられております。」 

20、橋本龍太郎首相。 

★1997年(平成9年)8月28日 - 「私は、我が国が、歴史の教訓を学び、まさに、『前事を忘れず、後事の戒めとする』という視点が広く国民の中に定着していると確信しております。

 21、内閣総理大臣談話。

 ★私自身も一昨年村山前総理が発表した。すなわち『植民地支配と侵略』によって、多くの国々、取り分けアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた』『歴史の事実を謙虚に受け止め、ここに改めて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持を表明』するとの考えと同じ考えを持っています。 

★この内閣総理大臣談話を決定したとき、私も内閣の一員でございました。 日本国内の一部に中国側の感情を刺激しかねない発言があったとしても、日本という国が将来、軍事大国にならず平和国家としての道を歩み続ける決意であることは、我々日本人にとっては、自明なことであると考えます。 しかしながら、自らに明らかなことではあっても、中国を始めとするアジア諸国に不信が生まれないような努力は弛まなく続けていく必要があります。 昨年来、我が国の安全保障の根幹である日米安全保障体制につきましても、中国側から様々な形で見解が表明されているわけですが、この問題もやはり対話を重ねることにより、中国側の懸念を解いていく努力が不可欠でありますし、現在進めている『指針』見直しの作業も引き続き透明性をもって行ってまいりたいと考えております。

 ★日米安保共同宣言において明確に述べられておりますように、日米両国は、アジア太平洋地域の安定と繁栄にとり中国が肯定的かつ建設的な役割を果たすことが極めて重要であると考えており、この関連で、中国との協力を更に深めていかなければなりません」。

 22、橋本龍太郎首相。 

★1997年9月6日 。「日本政府は、第二次世界大戦敗戦の日から五十周年の1995年、内閣総理大臣談話という形をとりまして、我が国として、過去の日本の行為が中国を含む多くの人々に対し、耐え難い悲しみと苦しみを与えた、これに対して深い反省の気持ちの上に立ち、お詫びを申し上げながら、平和のために力を尽くそうとの決意を発表しました。 ★私自身がその談話の作成に関わった閣僚の一人です。そしてこれが日本政府の正式な態度である、立場であることを繰り返し申し上げたいと思います。そしてこのことは首脳間における論議の中でも、中国側に私も率直に申し上げ、李鵬総理も私の発言に完全に同意すると、そう言って頂きました」。  

23、橋本龍太郎首相。

 ★1998年(平成10年)7月15日 。「我が国政府は、いわゆる従軍慰安婦問題に関して、道義的な責任を痛感しており、国民的な償いの気持ちを表すための事業を行っている「女性のためのアジア平和国民基金」と協力しつつ、この問題に対し誠実に対応してきております。 私は、いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題と認識しており、数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負わせました。 ★すべての元慰安婦の方々に対し心からのおわびと反省の気持ちを抱いていることを貴首相にお伝えしたいと思います」。 「我々は、過去の重みからも未来への責任からも逃げるわけにはまいりません。我が国としては、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えながら、2000年には交流400周年を迎える貴国との友好関係を更に増進することに全力を傾けてまいりたいと思います。」 ―(オランダ王国のコック首相への書簡)― 24、小渕恵三首相。 

★1998年10月8日 -「両首脳は、日韓両国が21世紀の確固たる善隣友好協力関係を構築していくためには、両国が過去を直視し相互理解と信頼に基づいた関係を発展させていくことが重要であることにつき意見の一致をみた。 小渕総理大臣は、今世紀の日韓両国関係を回顧し、我が国が過去の一時期韓国国民に対し植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し、痛切な反省と心からのお詫びを述べた。 金大中大統領は、かかる小渕総理大臣の歴史認識の表明を真摯に受けとめ、これを評価すると同時に、両国が過去の不幸な歴史を乗り越えて和解と善隣友好協力に基づいた未来志向的な関係を発展させるためにお互いに努力することが時代の要請である旨表明した。」 (日韓共同宣言 21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ)。  

25、小渕恵三首相。

★1998年11月26日 「双方は、過去を直視し歴史を正しく認識することが、日中関係を発展させる重要な基礎であると考える。日本側は、1972年の日中共同声明及び1995年 8月15日の内閣総理大臣談話を遵守し、過去の一時期の中国への侵略によって中国国民に多大な災難と損害を与えた責任を痛感し、これに対し深い反省を表明した。中国側は、日本側が歴史の教訓に学び、平和発展の道を堅持することを希望する。双方は、この基礎の上に長きにわたる友好関係を発展させる」。 26、山崎隆一郎外務報道官。 ★2000年(平成12年)8月17日 -「本記事では、日本が第二次大戦中の行為について、中国に対して一度も謝罪をしていないと書かれているが、実際には日本は戦争中の行為について繰り返し謝罪を表明してきている。 とりわけ、1995年8月に、村山総理(当時)が公式談話を発表し、日本が『植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました』と述べ、『痛切な反省の意』と『心からのお詫びの気持ち』を表明している。

 ★また、1998年に、小渕総理(当時)が、日本を公式訪問した江沢民主席に対して、村山談話を再確認している」。

 ★2000年8月30日 - 河野洋平外務大臣。

「私は、歴史認識については、戦後50周年に閣議決定を経て発出された村山総理談話で我が国の考え方ははっきりしていると考えています。 私も閣僚の一人として、この談話の作成に携わりましたが、これはその後の歴代内閣にも引き継がれ、今や多くの日本人の常識であり、共通の認識であると言えます」。

 27、福田康夫内閣官房長官。 

★2001年(平成13年)4月3日 -「因みに、我が国政府の歴史に関する基本認識については、戦後50周年の平成7年8月15日に発出された内閣総理大臣談話にあるとおり、我が国は、遠くない過去の一時期、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた事実を謙虚に受け止め、そのことについて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明するというものである。 こうした認識は、その後の歴代内閣においても引き継がれてきており、現内閣においても、この点に何ら変わりはない」。 26、田中眞紀子外務大臣。 ★2001年9月8日 -「日本は、先の大戦において多くの国の人々に対して多大な損害と苦痛を与えたり、失ったり、傷を負われました。 また、元戦争捕虜を含む多くの人々の間に癒しがたい傷跡を残しています。 こうした歴史の事実を謙虚に受け止め、1995年の村山内閣総理大臣談話の痛切な反省の意及び心からのお詫びの気持ちをここに再確認いたします」。 

27、小泉純一郎首相。 

★2001年10月15日 -「日本の植民地支配により韓国国民に多大な損害と苦痛を与えたことに心からの反省とおわびの気持ちを持った」。

 ★2001年 - 小泉純一郎首相。「いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題でございました。 私は、日本国の内閣総理大臣として改めて、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを申し上げます。 我々は、過去の重みからも未来への責任からも逃げるわけにはまいりません。 我が国としては、道義的な責任を痛感しつつ、おわびと反省の気持ちを踏まえ、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、いわれなき暴力など女性の名誉と尊厳に関わる諸問題にも積極的に取り組んでいかなければならないと考えておりま」。  

★2002年(平成14年)9月17日 - 小泉純一郎首相。「日本側は、過去の植民地支配によって、朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与えたという歴史の事実を謙虚に受け止め、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明した」。  

28、2005年8月15日 - 小泉純一郎首相。

★「また、我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。こうした歴史の事実を謙虚に受け止め、改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明するとともに、先の大戦における内外のすべての犠牲者に謹んで哀悼の意を表します。我が国の戦後の歴史は、まさに戦争への反省を行動で示した平和の六十年であります。 とりわけ一衣帯水の間にある中国や韓国をはじめとするアジア諸国とは、ともに手を携えてこの地域の平和を維持し、発展を目指すことが必要だと考えます。過去を直視して、歴史を正しく認識し、アジア諸国との相互理解と信頼に基づいた未来志向の協力関係を構築していきたいと考えています」。『いわゆる小泉談話』。 

29、菅直人首相(民主党所属)。 2010年(平成22年)8月10日 。

★「私は、歴史に対して誠実に向き合いたいと思います。歴史の事実を直視する勇気とそれを受け止める謙虚さを持ち、自らの過ちを省みることに率直でありたいと思います。 痛みを与えた側は忘れやすく、与えられた側はそれを容易に忘れることは出来ないものです。この植民地支配がもたらした多大の損害と苦痛に対し、ここに改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持を表します。  

以上、ざっと数えて28回、30回近くも、天皇陛下を始め、総理大臣が『お詫びを、談話の形』で表明しているのだ。 ★それでも足らずに『上皇陛下』」を『戦犯の息子』が、『元・慰安婦の手を握って、迷惑を掛けた』と、言えば済む。と喚いているのだ。つまり、歴史の続く限りは、永遠に謝罪し続ける。と言う事らしい。 

―戦勝国アメリカの反応― 

1、マッカーサーの悔悟。終戦後の1951年5月3日の米国上院軍事外交共同委員会でGHQのマッカーサーは次のように証言しました。  

★「日本は4つの小さい島々に8千万人近い人口を抱えていたことを理解しなければならない」日本の労働力は潜在的に量と質の両面で最良だ。 ★彼らは工場を建設し、労働力を得たが、原料を持っていなかった。 石油の産出がない、綿がない、羊毛がない、スズがない、ゴムがない、他にもないものばかりだった。

 ★その全てがアジアの海域に存在していた」 「もし原料供給を断ち切られたら1000万~1200万人の失業者が日本で発生するだろう」。 

★それを彼らは恐れた。 従って日本を戦争に駆り立てた動機は、大部分が安全保障上の必要に迫られてのことだった」。 

★会場はどよめきました。 証言通りならば、日本は侵略ではなく、『自衛のために戦争』したことになるからである。 ★つまり、アメリカにとっては「侵略国家・日本を打ち負かした正義の戦争」ということになっているのに、その前提を根底から覆す証言になるからです。 

★実際、明治維新以来、欧米列強に対抗するために「富国強兵」というスローガンを掲げ、 日本人は国づくりに励んできました。 そのために欠かせなかったのが『重工業の継続的発展』である。 ★日米開戦の半年前の時点でアメリカは日本へあらゆるものの輸入をストップしていました。 航空機、航空通信機器、工作機械、鉄鉱石、銑鉄、合金鉄、鉄製品、臭素、エチレン、研磨剤、油圧ポンプ、真鍮、亜鉛、ニッケル、カリ、ラジウム、牛革…など、日本人の経済活動に必要な資源はことごとく「禁輸」されていました。 

★所謂A(アメリカ),B(イギリス),C,(チャイナ)D、(オランダ)包囲網である。 これらがなければ日本人はじわじわ「殺されかけている」という状況だったわけである。★まさに、マッカーサーが言うようにアメリカに追い詰められて「自衛の戦い」に踏み切ったのである。 しかし、そんなこともお構いなしでアメリカ大統領・ルーズベルトは日本を追い詰めていきました。 日本は懸命な日米交渉を続けようとしましたが、あらゆる手を使って日本をはぐらかしていました。 ★例えば日本の近衛首相が「直接会談をしたい」とルーズベルト大統領に懇願したところ、 アメリカ側はなんと回答をしてきたのか…?この答えが『ハル・ノート』である。 

★『ハル・ノート』なる期限付き最後通牒である。 『決闘の日時、場所を言い渡し、手袋を投げつけ、返事は聞かない。 これはヨーロッパの『騎士道』、『日本の武士道』と同じである。 

★この『ハル・ノート』を送った事は政府の閣僚にも知らせずに送ったので、戦後らが知れ、「これでは、如何なる小国でも『名誉を重んじる国なら戦争に踏み切ったであろう』と、時のアメリカの大統領・ルーズバルトは非難されたが、それが実現し時は死んでいた。 『それを知ったので、マッカーサーの悔悟である』。  了)


 ―世界は知っている大東亜戦争の真実ー  

―★大東亜戦争名言集 ― 

 1)ウ・ヌー ビルマ外相 ★「敗者は日本ではない 敗者は植民地を失った欧米列強だ」。 高い理想と目的の高潔さに動かされたある国が、アジアの独立と民衆を植民地からの解放に多くの国民の生命と財産のすべてを犠牲にした。その国の名は「日本」という極東の島国だ。 東南アジアの諸国民は、欧米列強による長い植民地支配によって、「アジア人は白人には絶対に勝てない」と思いこんでいた」。その認識を覆したのが日本人だ。 2)ビルマ(ミャンマー)の元首相・バー・モウはいっている。 

★日本軍が「米、英、蘭、仏を我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。我々は白人の醜態振りを見て、アジア人全部が自信を持ち、独立は近いと知った。 一度もった自身は絶対に崩壊しない。日本が敗北した時、『これからは独立戦争を自力でしなければならない。独力でやれば50年は係る』。と思っていたが、以外に早くできた。 そもそも大東亜戦争は我々がやらなければならなかった戦争であり、我々の力で遣りたかった。 それなのに少ししかできず、申し訳なかった。 『ビルマの夜明け。バー・モウ・著』 我々を白人支配(植民地支配)から救い出してくれたのは日本だった。我々は大戦終盤に日本を見限ったが、その恩は忘れない。日本ほどアジアに貢献した国はいない。日本ほど誤解を受けている国はいない。 3)シンガポールの元首相ゴー・チョクトン氏。 

★日本軍の占領は残忍の事もあった。しかし、緒戦の勝利により、欧米のアジア支配は粉砕され、アジア人は自分達も欧米に負けない、の自信をもった。日本の敗戦15年以内に、アジアの植民地は全て解放された。  『諸君!平成5年七月号』 

 5)T.クーマン タイ副首相  

日本人の勇戦で、新しい独立国が不死鳥のように現れました。誰に感謝を捧げるべきか、余りにも明白です。 

 ★プラモード タイ首相 日本のおかげでアジアは独立できました。 日本というお母さんは、母体を壊してまでもアジア諸国という子供を産んでくれました。今日、アジア諸国が欧米と対等に話ができるのは誰のおかげか。 それは自らを殺してまで産んでくれた、日本というお母さんがあったからだ。 我々は、お母さんがお産を決意した『12月8日』を、全ての力を出し尽くし私たちの国を産み、力尽きた『8月15日』を忘れてはならない。 

 6)GHQ最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥 

★朝鮮戦争が始まってアメリカは自分たちのやっていることは、明治以来日本がやったことと同じだと気がついた。 朝鮮半島に「一方的に入ってきたのが清国」でそれが「日清戦争」であること。 「朝鮮半島に軍港をロシアが造り始めた」それが「日露戦争」である。

 7) ローガン弁護人 

★ 私はこの裁判を引き受けた当初は正直後悔した。 勝ち目がない裁判だからだ。しかし、研究、調査を重ねるごとに被告の無実が証明されていった。 最初から日本に20年間一貫した世界侵略の野心など全く無かった。 私は断言できる。 彼らは全員無罪だ。もし彼らを裁けるものがいるとすれば、それは日本人だけのはずである。

 8)F・リール弁護人 

★ 祖国を愛するいかなるアメリカ人も、こんな裁判記録では羞恥心にまみれるだろう。 裁判官に法律家が一人もいない裁判などあってたまるかGHQ最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥 日本には石油がない、錫もない、ゴムもない。その供給を全て絶たれたら、どんな小国でも戦争を決断する。

 9 )A・トインビー  

★第二次世界大戦において、日本人は日本のためよりもむしろ戦争によって利益を得た国々のために偉大な歴史を残した。 それらの国々と日本の掲げた短命の理想、大東亜共栄圏に含まれた国々である。日本人が歴史上、残した最大の業績は、世界を支配していた西洋人が「不敗の神」ではないことを示した点である。 10)アーズ女史 ★ 東京裁判は正義ではなく、明らかなリンチだ。 私たちアメリカがどうして日本を罰することができるのか? 私は理解できない。 

11)初代インド首相  

日本は謝罪を必要とすることを我々にはしていない。それゆえ、インドはサンフランシスコ講和会議には参加しない。講和条約にも調印しない。 

 12)イビーGHQ参謀部長 

★東京裁判は史上最悪の偽善だ。もし米国が同じ立場だったら、日本と同じように戦っただろう。 13)ティモア中華民国顧問   

★日本が立派にやり遂げたことは、欧米の植民地帝国を完全に破壊したことである。       

14)サイ インド弁護士会会長  

★インドの独立は日本のおかげで30年早まった。この恩は忘れてはならない。

 15) 、マレーシア外相  

★「なぜ日本が謝るのでしょうか?」、 あの大戦でマレーシア人と同じ小さな身体の日本人が大きな身体のイギリス人を追い払ってくれたではないですか? 日本なくして東南アジアの独立はありませんでした。 この日本が払った尊い犠牲を否定することは、バックミラーばかり見ているようなものです。 

 16)、ビディーン 歴史家

 日本軍政はマレー人に独立の種を撒き、成長させた。 17)チョクトン シンガポール首相 ★日本の統治は過酷なものだった。 しかし、日本軍により欧米のアジア支配は粉砕された。これはアジアに自信を与えた。大戦後、15年以内にアジアの植民地は全て開放された。

 18)ル・ドゴール フランス第18代大統領   

★シンガポール陥落は、白人植民地主義の歴史に終焉をもたらした。

 19)サン ビルマ独立の父

★ 日本の軍事訓練は厳しすぎた。何度か自殺を考えるほどだった。しかし、ラングーンが落ちた時、我々は間違っていないことを確信した。

 20)ネシアの教科書   

★日本の占領は大きな利益をもたらした。 第1に、基礎教育。 第2に、軍事組織。 第3に、政府機構。 これはインドネシア独立の基礎となった。 

 21)チャンドラ・ボーズ インドの独立運動家  

 ★インド国民軍はインド完全解放のために、日本の友情と共に戦い抜く。『デリーへ!』。 

 22)トバッテン卿 英印軍総司令   

★かつて精強を誇った日本軍も、最後は精神力のみとなり敗れていったが、何かが残った。「西洋人をアジアから追い落とした」という結果だ。 インパール作戦慰霊碑のある村の村長  日本兵は飢餓の中、勇敢に戦い死んでいった。 この絶望的な、しかし勇敢な行動は、インド独立の糧となった。この慰霊碑は日本兵の供養であり、独立インドの象徴なのです。

 23)ウェルズ SF作家  

 ★あの戦争の敗者は日本ではない。真の敗者は植民地をほとんど失った欧米列強である。 だが、植民地から解放された彼等は、独立国となって、経済は発展、市場となって、『旧・創始国』の経済にも寄与している。 

★結果、人類全てがハッピーになっている。

 24)ェフエー マレーシア外相  

★日本以外の方は『特攻隊員』が洗脳された、狂信的なものと想像することでしょう。 彼らの遺書を読めば狂信者とは程遠い存在であることが解ります。 彼らが守りたかったのは『母』であり、『妻』であり、『家族』であり、『愛する祖国』だったである。 

 ★これでこそ、今次大戦、志半ばで死んだ英霊も、靖国神社の神殿で、心安く眠れるだろう。 終りに、 今次大戦で、植民地にされ、搾取されたと、恨むのは、チャイナの一部と、南北朝鮮民族だけで、植民地を全て失った、英、仏、蘭、米でさえ日本の功績を認めているのだ。  

★植民地かれ解放され、独立した彼等は、今度は自分自身の為に懸命に働いいた。 結果は、彼等の国の経済は発展、彼等の生活も向上し、市場も大きくなる。 ★大きくなった市場は、旧・創始国の市場となる。 旧・創始国も、新市場ができてハッピーである。

結果、世界の人々全てが、幸せになったのだ。 

これで、大東亜戦争で『尊い命を捧げた英霊』も靖国神社の桜の(神殿)の元で安らかに眠れるだろう。 日本の行為に感謝した、上記の方々の何人かは、既に、この世を去った。 生き証人ないらくならんとする、今、これらを記録に残さねば、歴史から消え去る。 読んだ皆さん、セヤーその他の方法で後世に記録を残さねばならに。

 八月十五日、玉音放送の会った日、挙って靖国神社に向って、感謝の祈りを捧げよう。    

           (完)      豊永高明 拝、       

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