―日本の天皇陛下の存在―

今上天皇陛下(平成天皇)が譲位して平成が終わる。 4月30日には譲位なされ5月1日には新天皇が即位する『代変わりの年』である。 現在の日本が経済大国として繁栄しているのは、昭和天皇、今上天皇が二代続いて日本は世界史にも稀な偉大な天皇を頂いていたのかを検証してみたい。 ★天皇陛下の品定め等、旧憲法かでは不敬罪に当るかも知れないが、明治10年、内乱とは言え日本を二分しかねない西南戦争が九州の熊本での一年という短期間で終息。 日清戦争、日露戦争、共に世界の大国に、戦いを挑み勝利し、一躍世界の大国に中間に躍り出た。 第一次世界大戦と言えば1914年~1918年の4年を掛けた英、仏連合とドイツのヨーロッパの覇権争いがヨーロッパ全域に拡大したが、日本は連合国が側となって勝利に貢献し国威を発揚、戦後の世界秩序を創った国際連盟の常任理事国となった。 時代は下がって昭和6年の満州事変、昭和12年のシナ事変。 ★紀元2600年祭で国中が湧き上がったのが昭和15年、尋常小学校の一年生の筆者は、当時の興奮状態を鮮明に覚えている。 翌年の昭和16年に12月8日、アメリカ、イギリス相手に大東亜戦争勃発した。 世界中を戦火に巻き込んだ戦火も、昭和天皇の、終戦の勅命が下って、大東亜戦争が終わったのが昭和20年8月15日。 以後は一発の銃声も聞かない。 世界中を巻き込み、講和条約には50ヶ国が参加している大戦争である。 ★日本国家が、如何に統制が取れていたかを無言で表している。 その戦争は昭和20年8月15日、終戦の詔勅をラジオで聞いた国民が日比谷公園に自然と集まって皇居に向かって伏し拝んでいるのだ。 ドイツのように皇帝に敗戦責任の追及なら、皇居の堀に向って石でも投げるだろう。 皇居を伏し拝んだ国民は、自分達の力が足らず、戦に負けた事を皇居に向かって詫びたのだ。 ★半月後、陛下がマッカーサーを訪ねる事は、神ならない国民が知る筈がない。 ★しかし、天皇陛下が我々国民を、この困窮を見捨てる訳はない、の信頼は国家が誕生して二千年、脈々と受け継がれていたのだ。 その無言の期待に応えたのが昭和天皇の行動であった。 ―天皇陛下がマッカーサー司令官を訪ねたー 9月の始め、日本占領軍司令部ができた数日後、天皇陛下が通訳一人を伴って総司令部に、司令長官であるダグラス・マッカーサーを訪ねた。 ★マッカーサ―は、陛下が二個師団の近衛師団の精鋭の守る皇居に住んでいる、のは事前の調査で解っていた。皇居である元の江戸城は、徳川家を守るために造った城である。 ★これを如何にして逮捕するかの思案をしていた。 ★そのお目当ての陛下が、ひとりで自分を訪ねて来たのだ。 ★「命乞いか?亡命希望か?」。尊大にソフアーに収まって立って迎えもしない。 ★国際ルールに従った、挨拶が終わると、陛下は直立したまま、 ★陛下は開口一番、「我が方が受諾したポツダム宣言では、戦争犯罪人を裁くとある」。 『朕』が日本国の最高責任者である。彼等は朕の部下で朕の命で働いたに過ぎない。 従って部下に戦争犯罪人はいない。 「強いて戦争犯罪人を裁くなら朕を裁け!」。  通訳はそのまま通訳して良いか迷ったが、・・・。 「裁いた結果が極刑(死刑)であっても、甘んじて受ける」。 ★世界戦史に例を見ないこの言葉に驚いた、マッカーサーは、すっくと立ち上がって、 「日本の天皇陛下とはそのようなお方でしたか?」、私も、陛下の臣に産まれたかった。 と、臣下の礼をとった。 陛下の肩を抱きかかえるようにして、ソフアーに座らせ、「陛下はお疲れのようだ。コーヒーでも差し上げ、少しお休みをして頂け」と、部下に命じた。 ★さらに陛下は、(皇室名義の有価証券の入った風呂敷包)を差出し、これが朕の自由になる資産の全てである。 八千万の国民が、戦災で家、衣類も全て焼かれ、その日の食べ物にも困っている。 閣下の御力で、国民を飢えから救って頂きたい。と、いうのだ。 ★陛下の人徳に驚き、「私のできる事なら何なりと申し付け下さい」。 と、また臣下の礼でお答えする。 天皇がお帰りの時は、打って変わって玄関まで送りに出る。 ★間もなくあらゆる食料援助法を動員した食料が、日本の港に着いた。 先ず、脱脂粉乳にナンバ粉(トウモロコシの粉)は、向こう(アメリカ)では家畜の餌だ。と、悪たれを付ながらも、料理法を研究しながら我々の胃袋に消えた。 続いてキュウバー糖(砂糖)、メリケン粉と呼ばれたアメリカ産の小麦粉等は、「こんなに旨い食べ物が世界にはあったのか?」と驚いた。 ―日本の飢餓状態は終わったー ★日本の飢餓状態は、三ケ月で終わりの、正月には細やかな餅も配られ、何年ぶりかの平和な正月を祝った。当時小学校六年の私は戦争末期から戦後の三月の飢餓状態も、身を持って体験している。 戦争末期の半年、戦後の半年で、昭和21年度のなった頃には、鴨川の河原に生えた野草(ハコベ、ヨメナ、ツクシ等々)食べて飢えをしのいだ我々国民は贅沢さえ言わなければひもじさからは解放された。 ★我々日本人は、敗戦の荒廃から日本が立ち上がれたのは、天皇陛下の並外れた人徳に参ったマッカ―サ―の協力とあっての事と信じて、マッカーサーの事を神のように崇める者も多かった。勿論、国民の努力はあった。 ―古今、東西に名将と讃えられた将軍は多いー ★少数の部下を率いての、勝ち戦より、負け戦で退却を如何に兵力の損害を少なく撤退させるのが一番難しく、これのできるのが名将軍だという。 昭和天皇は、その『名将』ある。今上天皇(5月1日から平成天皇)は、昭和天皇の皇太子である。 ★敗戦後、日本を民主かと称する、愚民化せんと皇太子の庭教師(当時学習院普通科に6年)に派遣されたバイ二ング夫人が皇太子と接する内に、皇室と国民との関係、開かれた皇室を知ったバイニング婦人は、皇室の大切さを世界にPRする機関と化した。 なったなって日本を、世界二位の経済大国に成長させたのだ。 ★国民の団結と並外れの努力に、続く朝鮮戦争特需の幸運もあった、天皇陛下の人徳も忘れてはならない。 

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