韓国艦、レーダー照射。

―先ず一番は「日本に来た朝鮮人は、積極的に日本人となりたがっていた」―

筆者は昭和17年までは東京の中心、新宿の十二社に住んで、淀橋第六小学校に通っていた。 昭和18年になると戦況は激しくなり、東京空襲も現実見帯びてきた。 

淀橋浄水所、(現在は高層ビルが立ち並んでいる)東京ガスのガスタンクが近くにあった。

また、当時ゴルフは禁止されていたが、ミニ・ゴルフコースもあってバンカーの周りは雑草が生い茂り、本来はフェヤーウエイの芝のも雑草が混ざって、子供らの遊び場に最適であった。

★また、近くの連隊の新兵サンの匍匐前進の訓練が何時も行われ、稀には突撃の訓練も見たことがあった。

強制疎開が囁かれ、我が家も縁故を頼って、東京都板橋区練馬北町に引っ越し、開新第一国民学校へ編入となった。 

★練馬に来てみると街道町で、街道沿いの要所に店や家が建った集落が、町を造っているが、一歩裏に入れば麦畑で、僕らが通う開新第一国民学校は、麦畑の中を3キロほどの所で1時間も掛かって通学する長閑な田舎であった。

★飛行場の建設に応募して来た彼等の生活状態を、覚えているだけ書いて見る。

―飛行場の建設に家族連れで、高給を求めて来日しているー

★その通学路の途中に『首都防衛の戦闘機が離着陸』する小規模な飛行場があった。 

近くに関連設備で『十二間道路用地』(20m)と呼ばれる広大な広場と言える空き地があった。

★そこに戦闘機がしばしば不時着した。 今ならば、バイクも乗せない高校生ぐらいの少年兵が飛行機の操縦訓練をしているので事故は当然だと思う。 

開発途上の飛行機に、未熟な少年兵が訓練途中で事故を起こしても不思議ではない。

超低空で飛行機が下りて行くのを見ると、「不時着するぞ!」、と、僕達は我先に走って憲兵より先に着き、戦闘機の破片を拾って宝物にし、隠しもって喜んでいた。

★この建設現場の作業員は朝鮮人が殆どんで、飯場を組んで家族で寝泊りをしていた。 

当時はブルトウザ―やダンプカーなどなく、簡易レールを敷き、トロッコで土砂を運んで地面を均(ならし)していた。 

★飯場には妻子を連れた大勢の労働者がいて、ちょっとした部落を形成し、子供多く、開進第一国民学校に通っていた。概して子達は年も上の者が多く、総じて彼等は齢嵩で体格も大きい、日本語の文字は読めず、勉強はできないが、体育は上手で、槍投げは同級生では、ダントツで飛ばし、相撲をとっても強い、走っても早い。

★その腹いせに『朝鮮! 朝鮮!』と馬鹿にする者もいた。 戦争が激化していく昭和18年で、優秀な銃後の小国民を自認し『級長』だった僕は「朝鮮は日本だ、同じ日本人を馬鹿にしで喧嘩はするな!」と、怒鳴った。

―国民学校であった事実-

学校の先生も「豊永君の言う通りだ!」。「彼等は全部天皇陛下の赤子である!皆仲良くしなさい!」、と支持してくれた。 

大体の悪童どもは、先生の一喝で虐めはなくなったが、飯場近くには賄いの伯母さんが、朝鮮語交じりの日本語で人夫達を怒鳴り回していた。 

悪童達は覗き見をしていると、伯母さんが「何を見ているんだ!」と怒鳴って、手元のすりこぎのようなものを振り上げ追いかけてきた。

何か憎まれ口を叩き、「ワ!」と逃げ散る。 何時の時代でも悪童達は同じだ。

「朝鮮!朝鮮!と馬鹿にすな! 同じママ(メシ)食って何処違う!」。

と伯母さんは、手に持ったすりこぎを包丁に替えて、大声で叫びながら追いかけてくる。 

「言葉の使い方ちょと違うね!」と囃しながら、悪童たちは蜘蛛の子を散らすように逃げて楽しむ。  

★彼等は作業工程の都合か、何時も同じ所で作業するとは限らない。 作業の無い日はトロッコも空いている。 そのトロッコを、高さを利用して押し上げ、少しでも高ければ「それ!」と全員で押すのだ。 トロッコは緩やかに滑り出すと全員は飛び乗る。

惰力で走っているは最高に楽しかった。 

今考えて見ると危険極まりない事をしていた、監督が怒っても当然である。

―国民学校であった事実―

慣れて来ると我等悪童達も知恵がつき、1~2の悪童が斥候にでる。 作業をしていない日は、トロッコは使っていない。 見つけた斥候の悪童が手旗を真似た合図を送る。

悪童達は歓声を上げながら街道を逸れて、畑のあぜ道伝い走って行く。

トロッコに近ついた頃に、現場監督の親父さんが現場の見回りか、こちらにやって来た。

悪童達は蜘蛛の子が散るように逃げて行く。 その時に僕の下駄の鼻緒が切れた。

当時の子供は下駄の鼻緒が切れた位の応急処置は、手拭いの端を裂いて応急修理をする術位は心得ていた。

畑や舗装道路なら裸足でも平気だが、現場の砂利を撒いたとこは裸足で走れない。 

そこで鼻緒の切れた下駄を足に縛りつけて走ろうと、もたもたしているうちに監督が来た。 

怒られる、と思ったが監督は以外に優しく、

★「大変だな~、自転車で送ってあげよう、待っていなさい」。と飯場に戻って行った。

飯場は見える所に建ててある。 監督がでてくると一緒に子供が一緒にでてくる。 

僕を見つけて「豊永君だ!」と叫ぶ。僕のクラスの金本君だ。

監督は「いつも話にでる豊永サンとは君か?」。と愛想が一転。

「もうすぐ夕飯だ、メシを食って行きなさい」。と勧める。 友達も「それは好い、一緒に食べよう!!」と喜んで勧めるので御馳走になる事にした。

賄いの伯母さんも愛想よく「いつも人夫さんが一緒だが、今日は誰もいないからゆっくりしなさい」。

―日本人と朝鮮人の経済利得の一例―

友達と馬鹿話をしている間に食事の用意ができた。

僕は驚いた、ぐつぐつと鍋の中で煮えているのは、肉いっぱいのすき焼ではないか?

当時は戦局の悪化で食量も不自由になって、すき焼なんて何時お目に掛かった覚えはない。

★それどころか、銀シャリ(白米のご飯)なんて病気した時ぐらいで、普段は麦半分か、時期によるかで、さつま芋、豆、雑穀が半分くらい混ざっていた。

それが銀シャリに、肉いっぱいのスキ焼である。満腹になった僕は興奮気味で、家に帰り

件の話を母親に告げた。

★母も驚き、帰宅した父に話した。 父は、「大事な軍施設の工事をしている。その位の特配はあるんだろう。 何かお礼をしておきなさい」。  

母親は父や僕らの古着にトウモロコシ(自宅の空き地で育てていた)を持ってお礼に行った。 朝鮮の両親は大いに喜び、母には僕には内緒で「僅かですが、」と、お米の包みをくれたみたいだ。 

彼の一家とは付き合いが始まり、よほど困ったときには母親が大事にしていた、和服と食料品と交換していたみたいだった。

まだ少年の僕に良く解らないが、軍需産業に携われば、日本人だ、朝鮮人だの差別はなく結構な余録は貰っていた、と確信する。

★『総氏改名』を強制された、叫んでいるが、日本名を名乗って日本本土や中国大陸に渡った者達が結構な利益も享受し、且つ、悪事も働いた、と推測する。 

これを経験した者達は高齢化で引退した者が多い。 それを狙って反日運動で、受けた利益を隠し、「強制連行された」、「人権を侵された」、騒いで保障と称し、金をせびる輩は放置できない!

朝鮮名で日本軍の将官、将校になって日本人を指揮した軍人は者も数多い。

朴・キネの父(○○大統領は高木何某)は日本名で日本軍の陸軍将校であった。

★関連して『中国国民党総裁・紹介石』は、日本の陸軍士官学校を卒業し、陸軍砲兵隊の将校勤務をした事もあった事を知る人は少なくなったであろう。

―日韓併合は、韓国から頼みこんだのが真実であるー

これが日韓併合を望んだ韓国最大の政党『一進会』の声明文である。

『 日本政府は『一進会』の要望を真摯に受け止め、列強と相談しました。

日本の負担が増えるので、列強は日本が韓国を「併合する」ことを承諾しました。

韓国の皆様、在日朝鮮人の皆様、韓国併合は武力による征服、植民地化したのではではありません。

韓国側にとって不都合な真実ですが、この真実を韓国の国民に教えてください。

伊藤博文暗殺の39日後、【韓国最大政党『一進会』が『韓日合邦を要求する声明書』を上奏

【「日本は日清戦争で、莫大な費用と多数の人命を費やし韓国を独立させてくれた。

また日露戦争では日本の損害は甲午の二十倍を出しながらも、韓国がロシアの口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。

韓国はこれに感謝もせず、「外交権が奪われた!」、「創氏改名で名前を奪われた!」、「助けてくれ!」と、あっちの国、(清国)こっちの国に(ロシア)、にすがり、遂に保護条約に至ったのは、我々が招いたのである。

第三次日韓協約(丁未条約)、ハーグ密使事件も我々が招いたのである。

ハーグ密約事件。

日本は、1905年(明治38年)の第二次日韓協約によって大韓帝国の外交権を手にいれた。皇帝高宗は密使外交を展開することで日本からの支配を打破しようと試みていた。

李容泰、沈相薫、金嘉鎮ら大韓帝国内の抗日派は、イギリス人アーネスト・トーマス・ベッセルやアメリカ人ホーマー・ベザレル・ハルバートらと図り、さらに海外にいた李学均、李範晋らと連絡を取り合い、1907年6月、ハーグで開催されていた第2回万国平和会議に皇帝の密使を派遣し、列強に大韓帝国の外交権保護(第二次日韓協約の無効)を訴えようとした。

密使として派遣されたのは李相卨(元議政府参賛)、李儁(前平理院(朝鮮語版)検事)と李瑋、(前駐露公使館二等書記官、前駐露公使李範晋の次男)の三人である。

ハーグに到着した彼らは、デ・ヨング ホテルに投宿し、公然と活動を始めた。

しかし会議に出席していた列強は大韓帝国の外交権が日本にあること、大韓帝国の利益は条約によって日本政府が代表していることなどを理由に三人の密使の会議出席を拒絶した。出席を拒まれた密使らは、やむなく抗議行動として現地でビラ撒きや講演会を行った。

日本は、万国平和会議の首席代表として派遣されていた都筑馨六特命全権大使がこの事件に対応した。

また大阪毎日新聞から派遣されていた高石真五郎は連日、特派員電として現地の情勢を伝えた。この時、高石は日本人としてただ一人、密使と面会している。

密使らは具体的な成果を得ることはできなかった。そして、密使の一人である李儁は7

14日にハーグにて客死した。

今後どのような危険が訪れるかも分からないが、これも我々が招いたことである。

我が国の皇帝陛下と、日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか。

つまり、日韓併合を望んだのは韓国側です。

★この事実を経験し、知っている者達は高齢化で引退した者が多い。 それを狙って反日運動をして、「謝罪だ」、「保障だと」、金をせびる輩は放置できない!

朝鮮人の子共達と一緒に学び、遊んだ経験から見ると、日韓併合がもう10年も続き、僕等の年代が成人して発言権のできるまで日韓併合が続けば、日韓関係も替わっていたかも知れない。しかし、彼国の国民性を見ると、「百年川の済むのを待つ」かも知れない。

韓国人に、この歴史を教えるより、敗戦でプライド亡くした日本人に教える方が先かも?   (完)

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