世界史の嘘と捏造の2)歴史から学ぼう


我々は未来を予測するのは歴史学ぶ事が一番大事と確信する。

その歴史は勝者の手により、勝者の都合で書かれる。

古来より『少人は自分の経験に学ぶ、凡人は歴史に学ぶ、賢者は歴史で悟』。言われている。

★我々は、この勝者、または侵略者の手によって書かれた、嘘や捏造を正しく書き直す時が来ている。

秀吉は順調に天下を取ったものの、後継者に恵まれず、糟糠の妻寧々(ネネ)が子宝には恵まれれば、寧々が育てた子飼いの武将、加藤清正、福島市松等に囲まれ、豊臣一家は団結し、決して家康の付け込む透きはなかったが、石田三成等の官僚的な智将が、大事な『御世継秀頼様』と、奥御殿に隔離し、子飼いの武将達の間に壁を造った。

秀吉は側室の淀君と、彼女の産んだ秀頼を溺愛した。

秀吉の死後、淀君が徳川家康と豊民家大事の三成一派と、政権の座を争った。

結果は徳川家康側の圧勝で、家康の手によって豊臣家は滅ぼされた。

―徳川幕府の誕生と『元和偃武』―

★家康が豊臣を滅ぼし、天下を取り、江戸に幕府を開いたのが、1615年(慶長5年)である。

家康は、『元和偃武』を、天下に宣言する。

この意味を説明する。

『元和』(平和になった)』『偃武(武器を伏せて武器庫に収める)』。

『平和になった、武器は武器庫に収めよう』と、宣言した、稀有の権力者であった。 

★我々は、日本という国が先進国としては、稀有(稀な)な平和主義の国家であった事に、自信と誇りを持とう。

これが、世界にも稀な、江戸時代の平和で繁栄した時代を、260の長きに亘って続ける事ができたのである。

―江戸文化は庶民文化だー

★幕末の日本を旅行したイギリス人が、

「あまり豊かとは思えない下町の路地、傘をさしては行き違いもできない、細い路地の軒先に朝顔の花を咲き競わせ、愛でる。

台所を含め、二間しかない長屋に、美人画を懸けて楽しむ。

東海道の名所、旧跡の風景を浮世絵にして楽しむ、等はヨーッパの貴族並の美意識だ、と幕末に、日本を訪れた旅行者の記述がある。

しかも、その価格は掛けソバ二杯分という安価なものであったのは驚きである。 

さらに芸術性に至ってはルネッサンの巨匠に多大な影響を与えている等は、二重の驚きである。

―日本が平和の繁栄を謳歌している間も、軍備の増強する欧米ー

★しかし、日本が平和を謳歌している間に、欧米諸国は近隣諸国と領土争いの戦を繰り返し、武器、戦闘技術の進化を遂げた。

日本では、徳川幕府の260年を、為政者、一般大衆を含めて、太平を楽しみ、江戸文化の華を咲かせて。

ヨーロッパ文明もルネッサンで豪華賢覧に花は開いたが、貴族が中心の貴族文化で、庶民は蚊帳の外であった。 

★一方の日本の江戸文化は、『河原乞食』と呼ばれた貧乏役者が、河原に足場丸太で骨格を組み立て、ムシロを貼って小屋を立てた。そこで歌って、踊る。

自分も楽しんで、見物客を喜ばす。現代の名門、『歌舞伎』となり、現在も続く、『歌舞伎座』の元祖である。

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