★1930年代の極東に対するイギリスの基本防衛計画は、来襲する敵(日本軍)をシンガポール要塞で防御し、その間に主力艦隊を回航して制海権を得ようというものだった。 幾度かの計画変更の後、1941年4月に

★1930年代の極東に対するイギリスの基本防衛計画は、来襲する敵(日本軍)をシンガポール要塞で防御し、その間に主力艦隊を回航して制海権を得ようというものだった。

幾度かの計画変更の後、1941年4月にはアメリカ・イギリス・オランダの間で協定が結ばれ、アメリカは艦隊を派遣して地中海のイタリア艦隊を抑制し、イギリスは東洋艦隊を極東に派遣するという方針を確認する。

★ウィンストン・チャーチルイギリス首相・国防相はキング・ジョージ5世級戦艦デューク・オブ・ヨーク、レナウン級巡洋戦艦1隻、空母1隻の派遣を提案したが、海軍大臣は反対した。

イギリス軍海軍当局は、極東での日本の脅威に対応するためにネルソン級戦艦2隻、リヴェンジ級戦艦4隻、空母ハーミーズ、アーク・ロイヤル、インドミタブルを送る計画であった。

新鋭のキング・ジョージ5世級戦艦2隻は、ドイツ海軍ビスマルク級戦艦2番艦ティルピッツの出撃に備えてイギリス本国のスカパフローから動かすつもりはなかった。

★これに対しチャーチルは高速戦艦を中心とした、遊撃部隊を送って抑止力とすることを強く主張する。

★チャーチルは大和型戦艦の存在を気にかけていたという。

最終的に、キング・ジョージ5世級戦艦。

2番艦プリンス・オブ・ウェールズ、レナウン級巡洋戦艦2番艦レパルス、空母インドミタブル、護衛の駆逐艦エレクトラ、エクスプレス、エンカウンター、ジュピターからなるG部隊が編成された。

★プリンス・オブ・ウェールズは10月23日にスカパフローを出港し、11月16日南アフリカのケープタウン、セイロン島を経て1941年12月8日の太平洋戦争開戦直前の12月2日にシンガポールのセレター軍港に到着した。

プリンス・オブ・ウェールズはマレー駐屯陸軍司令官アーサー・パーシバル中将に出迎えられ、各国報道陣に公開されてイギリス連邦諸国民に安心感を与えた。

ウェールズ到着のラジオ放送は、南方に向け航海中の第二艦隊旗艦愛宕でも受信していた。その後、G部隊からZ部隊に改称された。

★12月4日、フィリップス長官は飛行艇でマニラ(フィリピン)に移動し、アメリカアジア艦隊司令長官トーマス・C・ハート大将と会談、12月6日の日本艦隊・輸送船団発見の報告を受けて12月7日にシンガポールに戻った。

その一方、空母インドミタブルは11月13日にジャマイカ島近海で座礁事故を起こし、合流できなかった。

かわりに小型空母のハーミーズの合流が決定したが、ハーミーズはダーバンで修理中のため合流できなかった。

★フィリップス提督は自軍の戦力に不安を感じ、リヴェンジ級戦艦リヴェンジ、ロイヤル・サブリン、クイーン・エリザベス級戦艦ウォースパイトを12月20日頃までに派遣するよう希望している。

航空機に関してイギリス軍参謀本部は「日本軍機とパイロットの能力はイタリア空軍と同程度(イギリス軍の60%)」と想定し、マレー防衛計画に336機の配備を決定したが、実際には半数程度しか配備されていなかった。

これはチャーチル首相がソ連に大量の航空機を供給していたからである。

★日本軍はイギリス東洋艦隊の実情を把握しており、また対策をとっていた。

12月7日、シンガポールの北東約300kmにあたるアナンバス諸島とマレー半島東岸のチオマン島の間に特設敷設艦辰宮丸が機雷を敷設。

さらに第四潜水戦隊・第五潜水戦隊の潜水艦複数隻(伊53、伊54、伊55、伊56、伊57、伊58、伊62、伊64、伊66、伊65)が三線の散開線を構成して哨戒していた。

潜水戦隊の軽巡洋艦(鬼怒、由良)は輸送船団護衛部隊と共に行動、潜水母艦はカムラン湾に所在だった。

連合艦隊参謀長宇垣纏少将は「ウェールズをやっつけたら、次はジョージ5世でも6世でも良い」と陣中日誌「戦藻録」に記録している。

★実際に日本軍は松永貞市少将の第二十二航空戦隊(美幌航空隊 元山航空隊:九六式陸上攻撃機27、元山航空隊 サイゴン基地:九六陸攻27)を南方に進出待機させ、新たに鹿屋航空隊の一式陸上攻撃機54機を配備してイギリス東洋艦隊を待ちうけていた。

12月8日の早朝、ハワイの真珠湾攻撃より70分早く、日本軍はタイ国の国境に近いマレー領コタバルに陸軍部隊を上陸させた(大本営もこのコタバル上陸をもって、対米英への宣戦を布告したと報じた)。

この部隊は、マレー半島を南下してイギリスの極東における根拠地、シンガポールを攻撃予定であった。

~日本軍のマレー半島上陸~

12月6日、日本軍輸送船団はオーストラリア空軍偵察機に発見され、同機は戦艦1隻を含む大部隊が南方に向かっていることを報告した。

一方のイギリス軍は日本軍輸送船団がタイ国へ上陸するのか、マレー半島へと上陸するのか、判断できなかった。

12月7日午前9時50分、宣戦布告前にも拘らず、日本軍零式水上偵察機と陸軍戦闘機隊がPBYカタリナ飛行艇を撃墜する。

★午前10時30分、小沢中将の艦隊はG点に到達し、日本軍輸送船団は予定に従って分散した。

行く先は、プラチャップ方面に輸送船1隻、バンドン方面に香椎と輸送船3隻、ナコン方面に占守と輸送船3隻、シンゴラとパタニ方面に第20駆逐隊(朝霧、夕霧、天霧)・第12駆逐隊(叢雲、東雲、白雲)・掃海艇3隻・輸送船17隻(第二十五軍先遣兵団)、コタバル方面に軽巡洋艦川内(第三水雷戦隊旗艦)、第19駆逐隊(綾波、磯波、浦波、敷波)・掃海艇3隻、輸送船3隻である。

★12月8日午前1時30分、日本軍はコタバル上陸を開始、イギリス軍も応戦し真珠湾攻撃より2時間前に交戦がはじまった。

イギリス軍機は輸送船淡路山丸を航行不能とし、綾戸山丸、佐倉丸大破という戦果をあげ、護衛部隊司令官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官に一時退避を決断させた。

各方面の日本陸軍上陸作戦は成功した。

★第一航空部隊の松永少将は、イギリス東洋艦隊が出現しない可能性が高まったため、配下部隊にシンガポールの四箇所の飛行場爆撃を命じる。

元山航空隊は悪天候のため引き返したが、美幌航空隊32機が12月8日午前5時38分からシンガポールを爆撃、損害なくツドモー基地に帰投した。

イギリス軍側は日本軍の兵器は時代遅れで、さらに日本人は身体的欠陥によりの夜間飛行は出来ないと錯覚していたため、日本軍の空襲に全く対応できなかった。

★この時、山田隊の偵察機がシンガポールを偵察し、『1120、湾内に戦艦2(プリンス・オブ・ウェールズとレパルス)、巡洋艦4、駆逐艦4』を報告した。

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