天皇さまが泣いてござった。


 昭和天皇陛下の行幸は、昭和21年の神奈川県を皮切りに北海道まで足かけ8年半に及びました。   

 終戦後、日本は未曾有の食料危機となりました。

~物価も高騰しました~

食料の配給制度は人々の生活を賄うに足りませんでした。

不衛生で暴力が支配する闇市があちこちに立ち並びました。

しかし、国民が一丸となって立ち上がりました。そのきっかけが「昭和天皇全国行幸」です。

 以下は、昭和24年5月の昭和天皇の佐賀行幸の時の話です。

 昭和天皇は、たってのご希望で、佐賀県三養基郡にある因通寺というお寺に行幸されました。

 因通寺は、戦時中に亡くなられた第十五世住職の恒願院和上が、皇后陛下の詠まれた歌を大きな幟(のぼり)にして、それを百万人の女性たちの手で、歌を刺繍して天皇陛下と皇后陛下の御許に奉じたお寺です。

その御歌は、昭和13年に皇后陛下が戦死者に対して詠まれた次の二首です。

 「やすらかに眠れとぞ思う きみのため、

 いのち捧げし ますらをのとも

 なぐさめんことのはもがな たたかいの

 にはを偲びて すぐすやから」。を

★陛下は因通寺が、この歌を大幟にしたことをいたく喜ばれ、皇后陛下も針をおとりになって、御みずからこの大幟に一針を刺繍されたという経緯があります。

また終戦後、因通寺は寺の敷地内に「洗心寮」という施設を作り、そこで戦争で羅災した児童約40名を養っていました。

 因みに、この因通寺のご住職が書かれた本が、『天皇様が泣いてござった』です。

今ではなかなか手に入らなくなったこの本には、通州事件の話などが所蔵され、たいへんに歴史的意義の深い本となっています。

★陛下がその因通寺にお越しになるという当日、寺に至る県道から町道には、多くの人が集まりました。

道路の傍らはもちろんのこと、麦畑の中にも、集まった方がたくさんいたそうです。

その町道の一角には、ある左翼系の男が、麦畑を作っていました。

この男は、行幸の一週間くらい前までは、自分の麦畑に入る奴がいたら竹竿で追っ払ってやる、などと豪語していました。

けれど、当日、次々と集まってくる人達の真剣なまなざしや、感動に満ちあふれた眼差しをみているうちに、すっかり心が変わってしまい、自ら麦畑を解放して「ここで休んでください、ここで腰を下ろしてください」などと集まった方々に声をかけていたといいます。

★朝8時頃、県道から町道の分かれ道のところに、御料車が到着しました。群衆からは、自然と「天皇陛下万歳!」の声が上がりました。

誰が音頭をとったというものではありません。

群衆の自然の発露として、この声が上がったのです。御料車が停車すると、群衆の万歳の声が、ピタリとやみました。

一瞬、静まり返ったところに、車から、まず入江侍従さんが降り立ちました。

そのあとから陛下が車から降りられました。

そして入江侍従さんが、陛下に深く頭を下げられる。

その瞬間、再び群衆の間から、「天皇陛下万歳!」の声が上がりました。

陛下は、その群衆に向かって、御自らも帽子をとってお応えになられました。

その姿に、群衆の感動はいっそう深まりました。

ここに集まった人達は、生まれてこのかた、お写真でしか陛下のお姿を拝見したことがない人たちです。

その陛下が、いま、目の前にいらっしゃる。

言い表すことのできないほどの感動が、群衆を包み込みました。

お車を停められたところから、因通寺の門まで、約700メートルです。

その700メートルの道路の脇には、よくもこんなにもと思うくらい、たくさんの人が集まっていました。

そのたくさんの人達をかきわけるようにして、陛下は一歩一歩お進みになられたそうです。

町役場のほうは、担当の役席者が反日主義者でした。

当時、まともな人は公職追放となって共産主義者が役席ポストに座っていました。

左巻きは、まさかこんなにも多くの人が出るとは想像出来なくて、道路わきのロープ等の設置もしていませんでした。

陛下は、人混みのまっただ中を、そのまま群衆とふれあう距離で歩かれたのです。

そして沿道の人達は、いっそう大きな声で「天皇陛下万歳!」を繰り返しました。

その声は、まるで大地そのものが感動に震えているかのような感じだったそうです。

陛下が寺の山門に到着しました。

山門の前は、だらだらした上り坂になっていて、その坂を上り詰めると、23段の階段があります。

その階段を登りきられたとき、陛下はそこで足を停め、「ホーッ」と感嘆の声をあげられました。

石段を登りきった目の前に、新緑に彩られた因通寺の洗心の山々がグッと迫っていたのです。

陛下は、その自然の織りなす姿に、感嘆の声をあげられました。

陛下が、その場で足をお留めになられている時間があまりに長いので、入江侍従さんが、陛下に歩み寄られ、何らかの言葉を申し上げると、陛下はうなずかれて、本堂の仏陀に向かって恭しく礼拝されました。

そして孤児たちがいる洗心寮に向かって歩かれます。

洗心寮の二階にある図書室に机を用意して、そこで佐賀県知事が陛下にお迎えの言葉を申し上げるという手はずになっていたのです。

図書室で、所定の場所に着かれた陛下に当時、佐賀県知事だった沖森源一氏が恭しく最敬礼をし、陛下にお迎えの言葉を述べました。

「本日ここに、90万県民が久しくお待ち申し上げておりました天皇陛下を目の当たりに・・・・」と、そこまで言上申し上げていた沖森知事は、そこで言葉が途切れてしまいました。

明治に生まれ、大正から昭和初期という日本の苦難の時代を生き、その生きる中心に陛下がおわし、自分の存在も陛下の存在と受け止めていた知事は、陛下のお姿を前に、もろもろの思いが胸一杯に広がって、嗚咽とともに、言葉を詰まらせてしまったのです。

するとそのとき、入江侍従さんが、知事の後ろにそっと近づかれ、知事の背中を静かに撫でながら、「落ち着いて、落ち着いて」と申されました。

すると、不思議なことに知事の心が休まり、あとの言葉がスムーズに言えるようになったそうです。

この知事のお迎えの挨拶のあと、お寺の住職が、寺にある戦争羅災孤児救護所のことについてご説明申し上げることになっていました。

自分の前にご挨拶に立った知事が、目の前で言葉を詰まらせたのです。

自分はあんなことがあってはいけない、そう強く自分に言い聞かせると、住職は奏上文を書いた奉書を持って、陛下の前に進み出ました。

そして書いてある奏上文を読み上げました。

 「本日ここに、一天万乗の大君をこの山深き古寺にお迎え申し上げ、感激これにすぎたるものはありません」

 住職は、ここまで一気に奏上文を読み上げました。

けれど、ここまで読み上げたところで、住職の胸にも熱いものが突き上げてしまいました。引き揚げ孤児を迎えに行ったときのこと、戦争で亡くなった小学校、中学校、高校、大学の級友たちの面影、「天皇陛下万歳!」と唱えて死んで行った戦友たちの姿、彼らと一緒に過ごした日々、そうしたありとあらゆることが一瞬走馬灯のように頭の中に充満し、目の前におわず陛下のお姿が霞んで見えなくなり、陛下の代わりに戦時中のありとあらゆることが目の前に浮かんで、奏上申し上げる文さえも奏書から消えてなくなったかのようになってしまったのです。

意識は、懸命に文字を探そうとしていました。けれどその文字はまったく見えません。

発する言葉も声もなくなり、ただただ、目から滂沱の涙がこぼれてとまらない。

どう自分をコントロールしようとしても、それがまったく不可能な状態になってしまわれ

たのです。

そのとき、誰かの手が、自分の背中に触れるのを感じました。

入江侍従さんが、「落ち着いて、落ち着いて」と背中に触れていてくれたのです。

住職は、このときのことを、「前に挨拶に立った知事の姿を見て、自分はあんなことは絶対にないと思っていたのに、知事さんと同じ状態になってしまった」と述べています。

住職は、自らも戦地におもむいた経験から、天皇皇后両陛下の御心に報いんと、羅災孤児たちの収容を行うことになった経緯を奏上します。

この奏上が終わったとき、何を思われたか陛下が壇上から床に降り立ち、つかつかと住職のもとにお近寄りになられました。

そして「親を失った子供達は大変可哀想である。人の心のやさしさが子供達を救うことができると思う。

預かっているたくさんの仏の子供達が、立派な人になるよう、心から希望します」と、住職に申されました。

住職はそのお言葉を聞き、身動きさえもままならなかったといいます。

★この挨拶のあと、陛下は、孤児たちのいる寮に向かわれました。

孤児たちには、あらかじめ陛下がお越しになったら、部屋できちんと挨拶するように申し向けてありました。

 ところが、一部屋ごとに足を停められる陛下に、子供達は誰一人、ちゃんと挨拶しようとしないのです。

 昨日まで、あれほど厳しく挨拶の仕方を教えておいたのに、みな、呆然と黙って立っているのです。

★すると陛下が子供達に御会釈をなさいます。頭をぐっとおさげになり、腰をかがめて挨拶され、満面に笑みをたたえていらっしゃる。それはまるで、陛下が子供達を御自らお慰めされているように見受けられたそうです。

~そして陛下は、ひとりひとりの子供に、お言葉をかけられました~

「どこから?」

「満州から帰りました」

「北朝鮮から帰りました」

 すると陛下は、この子供らに

「ああ、そう」とにこやかにお応えになる。

そして、

「おいくつ?」

「七つです」

「五つです」と子供達が答える。

 すると陛下は、子供達ひとりひとりにまるで我が子に語りかけるようにお顔をお近づけになり、

「立派にね、元気にね」とおっしゃる。

★陛下のお言葉は短いのだけれど、その短いお言葉の中に、深い御心が込められています。この「立派にね、元気にね」の言葉には、『おまえたちは、遠く満州や北朝鮮、フィリピ

ンなどからこの日本に帰ってきたが、お父さん、お母さんがいないことは、さぞかし淋しか

ろう。

悲しかろう。けれど今、こうして寮で立派に日本人として育ててもらっていることは、たいへん良かったことであるし、私も嬉しい。

これからは、今までの辛かったことや悲しかったことを忘れずに、立派な日本人になっておくれ。

元気で大きくなってくれることを私は心から願っているよ』というお心が込められているのです。

 そしてそのお心が、短い言葉で、ぜんぶ子供達の胸に沁み込んでいく。

★陛下が次の部屋にお移りになると、子供達の口から「さようなら、さようなら」とごく自然に声がでるのです。

 すると子供達の声を聞いた陛下が、次の部屋の前から、いま「さようなら」と発した子供のいる部屋までお戻りになられ、その子に「さようならね、さようならね」と親しさをいっぱいにたたえたお顔でご挨拶なされるのです。

 次の部屋には、病気で休んでいる二人の子供がいて、主治医の鹿毛医師が付き添っています。

その姿をご覧になった陛下は、病の子らにねんごろなお言葉をかけられるとともに、鹿毛医師に「大切に病を治すように希望します」と申されました。

鹿毛医師は、そのお言葉に、涙が止まらないまま、「誠心誠意万全を尽くします」と答えたのですが、そのときの鹿毛医師の顔は、まるで青年のように頬を紅潮させたものでした。

 各部屋を回られた陛下は、一番最後に禅定の間までお越しになられました。

この部屋の前で足を停められた陛下は、突然、直立不動の姿勢をとられ、そのまま身じろぎもせずに、ある一点を見つめられました。それまでは、どのお部屋でも満面に笑みをたたえて、お優しい言葉で子供達に話しかけられていた陛下が、この禅定の間では、うってかわって、きびしいお顔をなされたのです。

 入江侍従長も、田島宮内庁長官も、沖森知事も、県警本部長も、何事があったのかと顔を見合わせます。重苦しい時間が流れる。

 ややしばらくして、陛下がこの部屋でお待ち申していた三人の女の子の真ん中の子に、近づかれました。そしてやさしいというより、静かなお声で、

「お父さん。お母さん。」と、お尋ねになったのです。

 一瞬、侍従長も、宮内庁長官も、何事があったのかわからない。

 陛下の目は、一点を見つめていました。

★それは、三人の女の子の真ん中の子が、胸に抱きしめていた二つの位牌でした。

 陛下は、その二つの位牌が「お父さん?お母さん?」とお尋ねになったのです。

 女の子が答えます。

「はい。これは父と母の位牌です」

 これを聞かれた陛下は、はっきりと大きくうなずかれ、

「どこで?」とお尋ねになりました。

「はい。父は、ソ満国境で名誉の戦死をしました。母は引揚途中で病のために亡くなりました」

この子は、よどむことなく答えました。

 すると陛下は

「おひとりで?」とお尋ねになる。父母と別れ、ひとりで満州から帰ったのかという意味です。

「いいえ、奉天からコロ島までは日本のおじさん、おばさんと一緒でした。

船に乗ったら船のおじさんたちが親切にしてくださいました。

佐世保の引揚援護局には、ここの先生が迎えにきてくださいました」

 この子が、そう答えている間、陛下はじっとこの子をご覧になりながら、何度もお頷かれました。

~そして、この子の言葉が終わると陛下は?~

「お淋しい?」と、

それは悲しそうなお顔でお言葉をかけられました。

 しかし陛下がそうお言葉をかけられたとき、この子は、

「いいえ、淋しいことはありません。私は仏の子です。仏の子は、亡くなったお父さんとも、お母さんとも、お浄土に行ったら、きっとまたあうことができるのです。お父さんに会いたいと思うとき、お母さんに会いたいと思うとき、私は御仏さまの前に座ります。

そしてそっとお父さんの名前を呼びます。

そっとお母さんの名前を呼びます。

するとお父さんもお母さんも、私のそばにやってきて、私を抱いてくれます。だから、私は淋しいことはありません。私は仏の子供です」

 陛下はじっとこの子をご覧になっておいででした。

 この子も、じっと陛下を見上げています。

 陛下と、この子の間に、何か特別な時間が流れたような感じがしたそうです。

 そして陛下が、この子のいる部屋に足を踏み入れられました。

 部屋に入られた陛下は、右の御手に持たれていたお帽子を、左手に持ちかえられ、右手でこの子の頭をそっとお撫でになられました。

★そして陛下は、

~「仏の子はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」と申された~

 その時、陛下のお目から、ハタハタと数滴の涙が、お眼鏡を通して畳の上に落ちました・・・

 その時、この女の子が、小さな声で「お父さん」と呼びました・・・

 これを聞いた陛下は、深く頷きになられました。

 その様子を眺めていた周囲の者は、皆、泣きました。東京から随行してきていた新聞記者も、肩をふるわせて泣いていました。孤児院を後にされようとすると、子どもが陛下の袖を持ち、

「またきてね、お父さん」と言います。

 もう陛下は、流れる涙を隠そうともせず

~「うん、うん」とうなずかれて、お別れに成られました~

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